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2009年12月29日火曜日
今年も暮れる・・・
2009年12月16日水曜日
六分か三分か
2009年11月22日日曜日
憂国忌
2009年11月14日土曜日
さて、本日はある作家の話
海軍兵学校第68期生で※艦爆乗りのパイロット。昭和18年4月、作戦飛行中、南太平洋ソロモン海で撃墜されて捕虜になった人物である。 彼の乗機は2人乗り、漂流する二人をニュージーランド海軍の哨戒艇が発見し引き上げようとした時、部下は彼にこう言う
独身を通したその部下は、退官後温泉地でマッサージ師として暮らしていたが、
その豊田については、「捕虜だったくせに大きな顔するな」などの投書も多く、彼の作家としての生涯は旧海軍の中でも賛否両論があったと聞く。死の前年に著わした「戦争と虜囚のわが半世紀」の中で、心臓肥大の病気に苦しむ毎日を送りながら次のように書き記す。
1994年、豊田は74年の生涯を閉じる。最後の瞬間、南十字星は希望の星の如く彼を導いたに違いない・・・。
2009年11月12日木曜日
振る舞いを考える
2009年11月4日水曜日
決心つかず・・・
2009年10月26日月曜日
20回記念で合宿!
2009年10月16日金曜日
片付かない物語
2009年9月24日木曜日
「こころ」夏目漱石
2009年9月18日金曜日
2009年9月3日木曜日
「変化」と「現状維持」のジレンマ
2009年8月13日木曜日
226追記1
2009年8月2日日曜日
日本を今一度洗濯いたし申し候
2009年7月28日火曜日
坂本龍馬
2009年7月27日月曜日
第18回三と一の会お知らせ
2009年7月23日木曜日
もういっちょ、鹿児島ネタ
吾は官軍わが敵は 天地容れざる朝敵ぞ
「西洋にては戦の時慷概激烈なる歌を謡ひて士気を励ますことあり。即ち仏人の革命の時「マルセイエーズ」と云へる最(い)と激烈なる歌を謡ひて進撃し、普仏戦争の時普人の「ウオッチメン、オン、ゼ、ライン」と云へる歌を謡ひて愛国心を励ませし如き皆此類なり。左の抜刀隊の詩は、即ち此例に倣ひたるものなり」
作詞者外山正一はこう言っている。
これは作詞作曲とも「軍歌」を作ろうという意図を以て初めて作られた軍歌なのである。
この曲は短調から始まり、途中長調へと転じる。 (長調へ転じたところに歌詞がはいる)
前を望めば剣なり 右も左もみな剣
この歌詞など、ほとんど薩摩に肩入れしたものとしか 思えない。桐野や篠原や貴島らの奮戦ぶりを讃えているように しか思えないのだ。 作曲者ルルーが、どれほど明治10年役の事を教えられていたか わからない。しかし、この哀しい調べを聴く限りルルー自身も 滅びた西郷とそれに従った武士たちに哀切の情を感じていた事は 容易に想像がつく。
江藤淳はこのように言う。
「反逆者の軍隊の軌跡を正確に踏んで、正規軍が滅亡に向って巨歩を運んで行く。そういえば振武隊、正義隊、鵬翼隊、破竹隊などという薩軍諸隊の名称は、ほとんど富嶽隊、義烈空挺隊というような、大東亜戦争末期の陸軍特攻隊の名称を先取りしているではないか。いうまでもなく、特攻隊とは、いわば立体化した『抜刀隊』にほかならない。『前を望めば剣なり/右も左もみな剣/剣の山に登るのは/未来のことと聞きつるに/此の世に於て目のあたり/剣の山に登らんは』という状況に、敢えて身を投じて亡びようとするからである。」
「ここにいたったとき、国軍は、つまり帝国陸軍は、全く西郷に率いられた薩軍と同質の軍隊と化していた」
弾丸雨飛の間にも 二つ無き身を惜しまずに
作詞者外山正一がこの詩を発表したのは明治15年。35才の時。
再び江藤淳。
「滅亡を知る者の調べとは、もとより勇壮な調べではなく、悲壮な調べですらない。それはかそけく、軽く、優にやさしい調べでなければならない。何故なら、そういう調べだけが滅亡を知りつつ亡びて行く者たちの心を歌い得るからだ」
出所:「南洲残影/江藤淳/文芸春秋」
今日は鹿児島
2009年7月22日水曜日
佐賀藩と言えば・・・
佐賀に来ています
Ryo
2009年7月10日金曜日
再び小林秀雄
2009年6月28日日曜日
カナヘビ飼育中
Ryo
2009年6月23日火曜日
第17回三と一の会お知らせ
各位
無常ということ
小林秀雄。
2009年6月17日水曜日
白河以北一山百文
福島にきています。
2009年6月12日金曜日
かくも救いなき・・・
2009年6月2日火曜日
西へ行く人を慕ひて東行く
僕のプロフィールに貼り付けられている写真は、高杉晋作です。功山寺での挙兵を表した像です。第一次長州征伐時、俗倫派に牛耳られていた長州藩の実権を自らの手に取り戻すべく、下関にある功山寺で挙兵し、乾坤一擲の大勝負を仕掛けたのです。この時彼に率いられたのが、有名な「奇兵隊」です。
彼の大勝負は見事に成功し、長州藩は幕末維新の中心として大いに名を後世に遺したわけですので、彼のこの決断がなければ、明治維新はまた違った形になっていたことでしょう。
かつて、「西行」に凝っていた時期がありました。その時に以下のような文章を年賀状に書きました。
23才で出家し、73才で没するまで、西行は一体いくつの歌を遺したことだろう。彼の歌の特徴は、花を見ても、月を見ても、自分の生き方と密接に結びついていることで、花鳥風月を詠むことは、彼にとっては必ずしも楽しいものではなかったと僕は思っている。彼にとっては、「一首詠むたびに一体の仏を造る思いをし、一句案じては秘密の真言を唱える心地・・・」であり、歌こそが彼の求道の形だった。常に「いかにかすべき我が心」と身悶えするような心の底を見つめていた。
風になびく富士の煙の空に消えて
ゆくへも知らぬわが思ひかな
晩年西行はこんな歌を遺した。彼はこの歌を自讃歌の第一にあげていたという。この明澄でなだらかな調べこそ、西行が一生をかけて到達せんとした境地ではなかったか。
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西へ行く人を慕ひて東行く
心の底ぞ神や知るらむ
西行を愛し、自らを東行と号した維新の英傑高杉晋作は、こんな歌を遺している。「動けば来電の如く発すれば風雨の如し」と碑銘に刻まれた、彼の破天荒で、何の衒いも気負いもなく、酒に酔い、三味線に唄い、そんなことのついでに驚天動地の事業をやってのけた彼の生涯を貫く心意気が、この歌に凝縮されているように思う。
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人生意気に感ず。功名誰か復た論ぜん。
やはり、男はこれだ!