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2009年7月10日金曜日

再び小林秀雄

読書家である、みなさんに今日は小林秀雄の「読書について」から一部抜粋してご紹介したいと思います。
これは、昭和14年に著されたものです。僕の好きな文章です。特に最後の「諸君に何の不足があるというのか」という問いかけは、自分自身に問われているようで、自然と襟を正してしまいます。



 文字の数がどんなに増えようが、僕らは文字をいちいちたどり、判断し、納得し、批評さえしながら、書物の語るところに従って、自力で心の一世界を再現する。このような精神作業の速力は、印刷の速力などとなんの関係もない。読書の技術が高級になるにつれて、書物は、読者を、そういうはっきり眼の覚めた世界に連れて行く。逆にいい書物は、いつもそういう技術を、読者に
目覚めさせるもので、読書は、途中でたびたび立ち止まり、自分がぼんやりしていないかどうかを確かめねばならぬ。いや、もっと頭のはっきりした時に、もう一ぺん読めと求められるだろう。人々は、読書の楽しみとは、そんな堅苦しいものかと訝るかもしれない。だが、その種の書物だけを、人間の智慧は、古典として保存ししたのはどういうわけか。はっきりと眼が覚めて物事を考えるのが、人間の最上の娯楽だからである。

 書物の数だけ思想があり、思想の数だけ人間が居るという、在るがままの世間の姿だけを信ずれば足りるのだ。なぜ人間は、実生活で、論証の確かさだけで人を説得する不可能を承知しながら、書物の世界にはいると、論証こそすべてだという無邪気な迷信家となるのだろう。また、実生活では、まるで違った個性の間に知己ができることを見ながら、彼の思想は全然誤っているなどと怒鳴り立てるようになるのだろう。あるいはまた、人間はほんの気まぐれから殺し合いもするものだと知っていながら、自分とやや類似した観念を宿した顔に出会って、友人を得たなどと思いこむに至るか。
 みんな書物から人間が現れるのを待ちきれないからである。人間が現れるまで待っていたら、その人間は諸君に言うであろう。君は君自身でい給え、と。一流の思想家のぎりぎりの思想というものは、それ以外の忠告を絶対にしていない。諸君になんの不足があると言うのか。


解釈は皆さんに委ねましょう。

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