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2009年6月17日水曜日

白河以北一山百文


福島にきています。
維新後、今でいう東北地方はタイトルのように言われました。
戊辰戦争。最後まで新政府に抵抗されたことへの腹いせをこのような蔑称にしたのだと思います。

さて、ご承知の通り会津藩は最後まで頑強に新政府軍に抵抗します。
前に三と一のテーマ「転換期の指導者像」で取り上げた河井継之助もそうですが、彼らの云い分は「武士が立たぬ」でした。
多くの藩が日和ったり、時流にのって新政府軍となったりした中で越後長岡藩と会津藩のみは、頑強に抵抗するわけですが、僕は若かりし頃、両藩ともに決して暗愚ではなかったはずなのに、「なぜ時流を読めなかったのだろう?」と不思議に思っていました。しかしながら、「中年の危機」を迎えてから「よくぞ頑強に抵抗してくれた」と思うようになりました。彼らの頑強な抵抗がなければ「型」にまで昇華した武士道250年の歴史は一体なんだったのか?と思うようになったからです。今では彼らの流した血によって「日本史は救われた」とまで思うようになっています。

「荒城の月」という歌がありますね。
「春高楼の花の宴・・・」で始まる物哀しい歌ですが。あれは仙台出身の土井晩翠という人の作詞に滝廉太郎が曲をつけたものです。土井晩翠が心に描いた荒城は、会津の鶴ヶ城でした。滝廉太郎が思い描いたのは九州竹田市にある岡城・・・。それぞれ心象は異なりましたが、彼らに共通するものは喪われた「武士の魂」だったように思います。「荒城の月」にこんな歌詞があります。

秋陣営の霜の色
鳴きゆく雁の数見せて
植うる剣に照り沿いし
昔の光今いずこ

もうおわかりでしょう。

「昔の光」とは、かつて存在した武士が体現していた「なにものか」だったのです。



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