言うまでもなく、政治行動の究極の形は「テロ」であります。
今上映中の「桜田門外の変」もテロですね。
一番新しいその記憶は、昭和35年の社会党の浅沼委員長への「テロル」でしょう。
「山口二矢(おとや)」という、当時17歳の少年による犯行でした。浅沼が国交回復前の中国を訪問し、
「米帝国主義は日中共同の敵」
という言説を吐いたことに、腹を立てての犯行でした。。彼は留置所だったかな、その中で首つり自殺を遂げます。「七生報国」という遺書を残して。
さて、そもそも政治というものは主義主張の対立するものを抹殺しなければならないものです。「テロル」というのは、その抹殺手段に言葉ではなく、力を行使するだけだとも言えます。思想的に考えれば、政治の一行動といえるものです。
「民主主義の時代にテロルなどとんでもない」
世の中一般ではこう言います。要するに、言葉で戦う土俵上に、それ以外のものを持ち込むことはまかりならんというわけですね。この場合は、「力」というか、「暴力」といってもいいでしょう。
ならば、「数の力」は暴力ではないのか?
あくまでも思想的に言ってます。
同じ事です。
かつて世を騒がせた、全学連でも全共闘でも、彼らは「テロル」でなく「デモ」という手段を使ってこの国のありようを左右しようと目論んだ。これこそ、衆をたのんで、つまりは数を力を以て世の中を恫喝したわけ。どう考えても、美しい振る舞いではない。
それをあるべき姿と見るべきなのか?
デモによって政治が左右される世の中を是とみるのか?
僕は真っ平御免だ。
今日はこれまで。
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