1995年、世は挙げてWindows95の発売に浮かれている時、わが家が選択したのはMacintosh。
機種名はperformaでした。今とは比べるべくもない性能ですが、内蔵モデムの速度が9600bps、内蔵メモリは16mbで、買い足した同容量のメモリが5万円近くした時代です。
「こんなパソコンを考え出した人間は一体いかなる人間なのか」
そのPCに触発されて、「Macintosh開発物語」を読み、今では知らぬ者のないスティーブ・ジョブスとスティーブ・ウォズニアクの二人のapple創業者を知るに至りました。そして「Windows95何するものぞ」と、熱烈にMacintoshのファンになりました。その当時の機械に感動した心持ちは今でも鮮明に覚えています。その後も多くの関連書籍を読み、「MacFan」も数年購読し続けました。
それからしばらく、家でも会社でもMacintoshを使っていました。仕事での不便は多少感じましたが、頑なに使い続けていましたが、仕事ではメールで大容量のファイルのやり取りが日常化するに及んで、遂にWindowsの軍門に降ったのが2005年です。それ以来、仕事でMacintoshを使う事はなくなりましたが、家ではその後2台のMacintoshを買い替え、今では4台目。僕はWindowsのノートPCにどっぷりと浸かっています。
「機械」に驚く、感動するというのは、実はそれが2度目の経験です。最初は初代のウォークマンが発売されて間もなくでした。それでYMOを聞いた時の感動も、未だに忘れられません。Sonyというのは、僕が小さい頃から、今で言うブランドイメージは他のメーカーとは異なっていたように思います。少なくとも僕にはそう感じられました。その当時「流石はSonyだ!」と思ったのを今でも覚えています。
appleはその後もまさしく世界を変えるような商品を生みだし続けていますが、Sonyは一体どうしてしまったのでしょうか?残念でたまりません。何といっても韓国企業に売上で追い越されるなど、痛恨の極みです。
日本企業の製品というのは、どうも「優等生」すぎるような気がする。「面白み」がないのです。車でも、何でもそうですね・・・。そう感じるのは僕だけではないでしょう。
本日(4日)の日経記事によると、appleはサプライヤーとの協働、SC構築についても他社を一歩も二歩も先んじているらしいですね。ものづくりと、それを支えて継続的に市場に出し続けること、つまりは一貫したシステムが今の優位の源なのでしょう。
日本企業が、そして日本の製品が世界を席巻した時代は再び巡ってくるのでしょうか。
今日はこれまで。
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2011年1月4日火曜日
2011年1月3日月曜日
歴史への愛着
本日(3日)付の日経1面記事についてです。「三度目の奇跡」というシリーズものです。
「開戦前、焼き捨てられた報告書」「現実を直視、今年こそ」
のタイトルが踊ります。
この記事では、大東亜戦争前に報告書としてまとめられた対米英国力比較を、陸軍首脳部は焼却を命じ、それを無視して無謀な戦争に飛び込んだと云いたいらしいです。
「現状認識を封印した戦争の結末は悲惨だった」
この文章がそれを表しています。これ「嘘」ですね。
陸軍だけでなく海軍首脳部、そして政府閣僚、当時の最高首脳部の全てが対米英戦にほぼ勝ち目はないことは正確に認識してました。だからこそ東条英機が「清水の舞台から飛び降りる心持」と、対米英戦争に突入せざるを得ないことを表現したのです。万に一つしか勝ち目はないことを認識していたからです。確かに、少壮幕僚の中にはドイツの破竹の勢いに目がくらみ、対米英国力など歯牙にもかけなかった者もいたとは思います。しかしながら、首脳部は間違いなく圧倒的な国力の差を正確に認識していました。
記事では陸軍がまとめた報告書しか対象とされてませんが、当時内閣直属の企画院でも同じようなことをまとめて、当然同じ結論を出しています。
「必ず勝てるのか!」と昭和天皇は、口調厳しく陸軍参謀総長、海軍軍令部長を詰問しました。その時の回答は
「必ず勝てるとは言いかねます。然しながら勝機がないとは言えません」
でした。「戦に必ず勝つ」とは言えない事ですし、「負ける戦に勝つ」こともありうるのが戦争だからです。
「万に一つの僥倖をたのみ『賭け』に出ざるを得なかった」
これこそが事実でしょう。決して現実を直視していなかったわけではない。
ただ過去を断罪することが「反省」だと思っているのでしょうか。しかももっとたちの悪いことに、事実ではないことを事実であるかのように装い、それを反省、断罪するなど、まるで「阿呆」の仕業。
「過去の断罪」とは、自らはそうされるには当たらないという高みにおいた者だけが為し得る傲慢な業だということに思いが至らないらしいです。
「歴史に学ぶ」とは、歴史への愛着、共感がなければ、それを為す事はできません。
「日本の歴史が、自分の鑑とならぬような日本人に、どうして新しい創造があり得ませうか。」
小林秀雄が昭和16年に述べた言葉です。
今日はこれまで。
2011年1月2日日曜日
聖と俗の曖昧さ
毎年、近所の神社へ初詣でへ行きます。社殿はそう大きくはありませんが、社叢は見事。創建は1300年前、という歴史ある神社です。
さてその神社の境内ですが、どうも犬連れが多くて気に障ります。「聖」なる場所に「犬畜生」を入れるなどどうも違和感があるのです。それも若い世代だけでなく、いい年の老人までそうですから全く恐れ入りますよ。少なくとも社殿の近くでは犬は立ち入り禁止にすべきだと思うですが。別に悪さをするわけではないですが、「聖」と「俗」のけじめは必要だと思うのです。日本でのその曖昧さも、日本らしさはあるのですが、世界では宗教に「聖」を求める、与える思想がありますからね、せめて、日本の宗教機関でもそのくらいのことをすべきだと思います。
正月1日になるといつも思う事ですが、大晦日までの慌ただしい世の中が元日には嘘のように静かになってしまう、その静かな元日が僕は何ともいえず僕は大好きなのです。窓から見える景色は、いつもと変わらないのに、なぜ全く異なった心象を与えてくれるのでしょう。大袈裟ですが一切の音がなくなったかのような印象を受けます。
実にいい・・・。
今日はこれまで。
さてその神社の境内ですが、どうも犬連れが多くて気に障ります。「聖」なる場所に「犬畜生」を入れるなどどうも違和感があるのです。それも若い世代だけでなく、いい年の老人までそうですから全く恐れ入りますよ。少なくとも社殿の近くでは犬は立ち入り禁止にすべきだと思うですが。別に悪さをするわけではないですが、「聖」と「俗」のけじめは必要だと思うのです。日本でのその曖昧さも、日本らしさはあるのですが、世界では宗教に「聖」を求める、与える思想がありますからね、せめて、日本の宗教機関でもそのくらいのことをすべきだと思います。
正月1日になるといつも思う事ですが、大晦日までの慌ただしい世の中が元日には嘘のように静かになってしまう、その静かな元日が僕は何ともいえず僕は大好きなのです。窓から見える景色は、いつもと変わらないのに、なぜ全く異なった心象を与えてくれるのでしょう。大袈裟ですが一切の音がなくなったかのような印象を受けます。
実にいい・・・。
今日はこれまで。
2011年1月1日土曜日
新春 2011
明けましておめでとうございます。
今年もまた浅学卑才の拙文にお付き合いくださいますよう
よろしくお願い申し上げます。
さて、本年の私の年賀状です。
新春2011年(皇紀2671)
今年もまた浅学卑才の拙文にお付き合いくださいますよう
よろしくお願い申し上げます。
さて、本年の私の年賀状です。
新春2011年(皇紀2671)
「時代精神」。ある時代に支配的な知的・社会的・政治的動向を表すといった意味でしょうか。明治のそれを言うなら、独立精神と「志を志として尊ぶ」というようなものでしょう。「明治人」という言葉使いがあります。そこに「偉大な」という形容詞をつければ、漱石、鴎外の両文豪、あるいは新渡戸稲造や内村鑑三などが挙げられます。大正という時代の精神は、コスモポリタニズムとヒューマニズム。白樺派の武者小路実篤や志賀直哉、有島武郎などに代表されるのではないでしょうか。彼らを「大正人」と名付けても違和感はそうありません。世に言う大正の教養主義は、明治の修養という儒教的倫理観へのアンチテーゼでした。
さて、ここではたと困惑するのが「昭和」のそれをいかに表すかということ。戦後は言うに及ばず戦前でさえその精神を表す言葉を見つけることができません。僕の浅学故のこともあるでしょう。ただ一言で時代を表すことが不適当な気がするのです。戦前の20年間は、未だ罵倒の中にあります。曰く、過去の「反省」から戦後の社会は出発したのだと。そして経済一辺倒で突き進んできました。
ただ不思議なことに、「儒教的」なるものを排し、「封建」の残滓を一掃したはずの戦後の社会にあっても、顧みる矩として向けられていたのは「明治人」でした。そう呼び表される人は、明治が持っていた「型」という道統を受け継いでいた人にほかなりません。そしてそれは戦後の社会から失われたことが確実なものでした。
昭和から平成へ。この国は失われたものに眼差しを向ける一方で、ただひたすらに「豊かさ」と「便利さ」を追い求めてきました。しかしながら、豊かに、そして便利になるということは、それまでの不便を捨て去ることにほかなりません。不便だからこそ、または不自由だからこそ感じられるものもある。そもそも、何一つ不自由もない、不便もない中で人間は一体何を生みだすことができるのだろうか。国破れて66年、僕らの社会は一人の漱石や鴎外も生みだしていない・・・。そんなことを考えてしまいます。
今日はこれまで。
2010年12月31日金曜日
今年も終る
今年も終ります。
非生産的活動に終始した1年でした。
今年ほど活字に溺れた年はなかったですね。前半の執筆、その反動での活字への食傷、そしてまた活字渇望の揺り戻し。僕を知る人はそれをよくわかってくれると思います。
毎月1回続けていた3と1の会も、8月開催の第30回を期に開催されていない状況ですが、2011年は折を見て復活させましょう。
9月は25回、10月、11月、12月は毎日このブログを更新して来ました。よくもまあこんなに書くことがあったものだと自分でも驚いています。読み返してみれば「?」がつくのも多い文章ですが、未見の読者の皆さまにはお付き合い下さり感謝しています。また来年もお付き合いください。
それでは皆さま良いお年をお迎え下さい。
2011年新年は、年賀状からスタートします。
非生産的活動に終始した1年でした。
今年ほど活字に溺れた年はなかったですね。前半の執筆、その反動での活字への食傷、そしてまた活字渇望の揺り戻し。僕を知る人はそれをよくわかってくれると思います。
毎月1回続けていた3と1の会も、8月開催の第30回を期に開催されていない状況ですが、2011年は折を見て復活させましょう。
9月は25回、10月、11月、12月は毎日このブログを更新して来ました。よくもまあこんなに書くことがあったものだと自分でも驚いています。読み返してみれば「?」がつくのも多い文章ですが、未見の読者の皆さまにはお付き合い下さり感謝しています。また来年もお付き合いください。
それでは皆さま良いお年をお迎え下さい。
2011年新年は、年賀状からスタートします。
2010年12月30日木曜日
型の喪失 補筆
平成22年も残すところ2日のみとなった本日、今日は乃木希典の殉死が「型」を持つ明治人にどう受け止められたかをご紹介したいと思います。乃木自身も、「軍服を纏った聖僧(徳富蘇峰の言葉)」と言われたほどの人。まさしく古武士の相貌、風格をもった「型」の人間であったことはいうまでもありません。
「善の研究」で知られる哲学者西田幾太郎は明治3年生れであり、彼もまた唐木の言う「型」の人であったことは前述しました。彼も、また同じく「型」を持つやや年年長の内村鑑三(万延2年生れ)と同じく、乃木の殉死に大きな衝撃を受け、それを好意的に受け止めています。西田の場合は、弟を旅順攻略戦で亡くしており、将軍乃木に対しては複雑な感情があったと思いますが、その遺族感情は乃木が2人の息子を同じく戦死させており、しかも乃木の凱旋後の挨拶を聞くに及んで、その感情は一掃されます。
「只管忠良なる幾万の将卒を旅順攻囲の犠牲としたることの悲しくも亦愧づかしく、今更何の面目あって諸君と相逢ふの顔かあらん、出来得べくんば蓑笠に実を窶し、裏道より狐鼠々々と逃げ帰りたい」
これが乃木の挨拶です。乃木は功を誇るどころか、功を恥じたのです。
西田は、乃木の自害について次の様に手紙に書きました。
「あの様な真面目の人に対しては我等は誠にすまぬ感じがする。乃木さんの死といふ様なことが、何卒不真面目なる今日の日本国民に多大の刺激を与へねばならぬ。乃木さんの死についてかれこれ理窟をいふ人があるが、此間何等の理窟を容るべき余地がない。近年明治天皇の御崩御と将軍の自害ほど感動を与へたものはない。」
この西田の抱いた感激は、明治の世の一般的な受け止め方といえるでしょう。この西田より1世代後、明治26年生れの矢内原忠雄も、同様の感想をもちました。矢内原は支那事変中の国家批判を不穏な言説とされ、当時の東大経済学部教授を追われた人物ですが、彼は明治国家の理想を体現したような青年でした。彼は、深く「明治」と結びつき明治人の精神的道統にたつことで自己形成を目指そうとした青年で、そのような己の立場を「武士的偏窟」と名付けていました。
「矢内原が引き継ごうとした明治人の精神的遺産とは、明治を建設したという彼らの強い自負心と独立精神、いかなる権力にも屈せずに己の主義―志に殉ずる精神とそのような人間への傾倒、いいかえるなら「志を志として尊ぶ心」ともいうべきものをひきつぐことにほかならない。」
一方、矢内原とほぼ同世代、明治18年生れの武者小路実篤や、同16年生れの志賀直哉は白樺派のメンバーでもありますが、彼らは学習院時代の院長乃木に対して激しい嫌悪の情を抱き、ことごとく反発します。乃木もまた、彼らグループを「不良の群れ」と見ていたようで、「如何にして善導するか」に腐心していたといいます。
志賀は、大正元年9月14日の日記にこう書き記しています。
「乃木さんが自殺したといふのを英子からきいた時、馬鹿な奴だといふ気が、丁度下女かなにかが無考へに何かした時感ずる心持と同じやうな感じ方で感じられた。」
この白樺派の乃木観の代表は、次の武者小路の手紙です。
「ゲーテやロダンを目して自分は人類的の人と云ひ、乃木大将を目して人類的の分子を少しももたない人と云ふのに君は不服なのか。(略)さうして君は乃木大将とロダンと比較して、いづれが人間本来の生命にふれてゐると思ふのか。乃木大将の殉死が西洋人の本来の生命をよびさます可能性があるtぽ思つてゐるのか。(略)理論の如何に尊重すべきかを知る時に、(略)なぜ主義の為に殉ずる人のやうに自己に権威を感ずることなしに殉死されたかがわかるだらう。かくて自分は乃木大将の死を憐れんだのである。(略)ゴオホの自殺は其所にゆくと人類的の所がある。」
乃木の殉死を「人類的」に語るなど、コスモポリタン的な体質がよく現れています。白樺派の面々にとって、乃木や乃木が体現する「明治」という時代風潮など、嫌悪すべき対象でしかなく、その「明治」からの脱却が、次の「大正」の精神を形づくっていくことになるのです。
この白樺派より前の「自然主義」に対しては、西田もその風潮の蔓延するを憂えていました。
「青年が自然主義にかぶれ居る事は御校に限つた訳にあらず慨嘆の至りに候、自然主義も文芸の一派としてあながち排斥すべきものにあらずと存じ候へども、未た文芸の何物たるやも知らす、又真の自然主義をも理解せぬ様の乳臭児が自然主義の演説など沙汰の限りと存じ候。」
唐木が言う「型」とは、明治の精神という言葉に置き換えることができるでしょう。そしてそうであるからこそ、次の世代には旧習、固陋な伝統と映ったこととなったのです。アンチ明治が大正であり、その振れ過ぎた針が昭和に戻って来るといった流れでしょうか。いずれにせよ、それぞれは決して交わる事はなく、否定することだけの連続でした。だから、棄てなくてもいいものまで棄ててしまったのではないでしょうか。
今日はこれまで。
「善の研究」で知られる哲学者西田幾太郎は明治3年生れであり、彼もまた唐木の言う「型」の人であったことは前述しました。彼も、また同じく「型」を持つやや年年長の内村鑑三(万延2年生れ)と同じく、乃木の殉死に大きな衝撃を受け、それを好意的に受け止めています。西田の場合は、弟を旅順攻略戦で亡くしており、将軍乃木に対しては複雑な感情があったと思いますが、その遺族感情は乃木が2人の息子を同じく戦死させており、しかも乃木の凱旋後の挨拶を聞くに及んで、その感情は一掃されます。
「只管忠良なる幾万の将卒を旅順攻囲の犠牲としたることの悲しくも亦愧づかしく、今更何の面目あって諸君と相逢ふの顔かあらん、出来得べくんば蓑笠に実を窶し、裏道より狐鼠々々と逃げ帰りたい」
これが乃木の挨拶です。乃木は功を誇るどころか、功を恥じたのです。
西田は、乃木の自害について次の様に手紙に書きました。
「あの様な真面目の人に対しては我等は誠にすまぬ感じがする。乃木さんの死といふ様なことが、何卒不真面目なる今日の日本国民に多大の刺激を与へねばならぬ。乃木さんの死についてかれこれ理窟をいふ人があるが、此間何等の理窟を容るべき余地がない。近年明治天皇の御崩御と将軍の自害ほど感動を与へたものはない。」
この西田の抱いた感激は、明治の世の一般的な受け止め方といえるでしょう。この西田より1世代後、明治26年生れの矢内原忠雄も、同様の感想をもちました。矢内原は支那事変中の国家批判を不穏な言説とされ、当時の東大経済学部教授を追われた人物ですが、彼は明治国家の理想を体現したような青年でした。彼は、深く「明治」と結びつき明治人の精神的道統にたつことで自己形成を目指そうとした青年で、そのような己の立場を「武士的偏窟」と名付けていました。
「矢内原が引き継ごうとした明治人の精神的遺産とは、明治を建設したという彼らの強い自負心と独立精神、いかなる権力にも屈せずに己の主義―志に殉ずる精神とそのような人間への傾倒、いいかえるなら「志を志として尊ぶ心」ともいうべきものをひきつぐことにほかならない。」
一方、矢内原とほぼ同世代、明治18年生れの武者小路実篤や、同16年生れの志賀直哉は白樺派のメンバーでもありますが、彼らは学習院時代の院長乃木に対して激しい嫌悪の情を抱き、ことごとく反発します。乃木もまた、彼らグループを「不良の群れ」と見ていたようで、「如何にして善導するか」に腐心していたといいます。
志賀は、大正元年9月14日の日記にこう書き記しています。
「乃木さんが自殺したといふのを英子からきいた時、馬鹿な奴だといふ気が、丁度下女かなにかが無考へに何かした時感ずる心持と同じやうな感じ方で感じられた。」
この白樺派の乃木観の代表は、次の武者小路の手紙です。
「ゲーテやロダンを目して自分は人類的の人と云ひ、乃木大将を目して人類的の分子を少しももたない人と云ふのに君は不服なのか。(略)さうして君は乃木大将とロダンと比較して、いづれが人間本来の生命にふれてゐると思ふのか。乃木大将の殉死が西洋人の本来の生命をよびさます可能性があるtぽ思つてゐるのか。(略)理論の如何に尊重すべきかを知る時に、(略)なぜ主義の為に殉ずる人のやうに自己に権威を感ずることなしに殉死されたかがわかるだらう。かくて自分は乃木大将の死を憐れんだのである。(略)ゴオホの自殺は其所にゆくと人類的の所がある。」
乃木の殉死を「人類的」に語るなど、コスモポリタン的な体質がよく現れています。白樺派の面々にとって、乃木や乃木が体現する「明治」という時代風潮など、嫌悪すべき対象でしかなく、その「明治」からの脱却が、次の「大正」の精神を形づくっていくことになるのです。
この白樺派より前の「自然主義」に対しては、西田もその風潮の蔓延するを憂えていました。
「青年が自然主義にかぶれ居る事は御校に限つた訳にあらず慨嘆の至りに候、自然主義も文芸の一派としてあながち排斥すべきものにあらずと存じ候へども、未た文芸の何物たるやも知らす、又真の自然主義をも理解せぬ様の乳臭児が自然主義の演説など沙汰の限りと存じ候。」
唐木が言う「型」とは、明治の精神という言葉に置き換えることができるでしょう。そしてそうであるからこそ、次の世代には旧習、固陋な伝統と映ったこととなったのです。アンチ明治が大正であり、その振れ過ぎた針が昭和に戻って来るといった流れでしょうか。いずれにせよ、それぞれは決して交わる事はなく、否定することだけの連続でした。だから、棄てなくてもいいものまで棄ててしまったのではないでしょうか。
今日はこれまで。
2010年12月29日水曜日
型の喪失 その2
白樺派は学習院出身者で多くを占められていました。彼らの多くは軍人嫌いで、それは明治末期に昭和天皇の教育係を命じられた乃木希典が院長になり、乃木の推し進めた復古調の、儒教的な「修養」への反発からです。
「白樺派は人類の意思のおのずからなる発露、人類の素直な生長、個性の伸長を阻害するものと闘った。家、すなわち修身斉家の伝統の具体的な勢力と型をもつ家、家長の支配する家と闘った。殊にその同人たちが多く学習院出身者であるということ、すなわち名家の出であるということにおいてそれは顕著な、またいっそう触目的な傾向であった。」
当の幼き昭和天皇御自身は、終生にわたり乃木の謦咳に接したことを善き思い出と述べられたことは周知の事実。
http://3and1-ryo.blogspot.com/2010/08/65.html
明治の「修養」に変わって大正になると「教養」という言葉が使われるようになります。後者には「型」というイメージはありません。というより、「型にはまった」ことは軽蔑され、形式主義が斥けられるようになるのです。
その「教養」派にとっては、乃木の殉死さえも否定的なものとなります。唐木のいう「素読世代」、鴎外、漱石が受けた衝撃とは全く異なるものです。大正10年に発表された芥川龍之介の「将軍」という本があります。これについて小林秀雄はこんな風に語ります。
「『将軍』の作者が、この作を書いた気持は、まあ簡単ではないと察せられますが、世人の考へてゐる英雄乃木のいふものに対し、人間乃木を描いて抗議したいといふ気持ちは、明らかで、この考へは、作中、露骨に顔を出してゐる。(中略)作者が技巧を凝せば凝すほど、作者の意に反して乃木将軍のポンチ絵の様なものが出来上がる。最後に、これもポンチ絵染みた文学青年が登場しまして、こんな意味の事をいふ、将軍の自殺した気持は、僕等新しい時代の者にもわからぬ事はない、併し、自殺する前に記念の写真を撮ったといふ様な事は、何んの事からわからない。自分の友人も先日自殺したが、記念撮影をする余裕なぞありませんでしたよ。作者にしてみれば、これはまあ辛辣な皮肉とでもいふ積りなのでありませう。」
「僕は乃木将軍といふ人は、内村鑑三などと同じ性質の、明治が生んだ一番純粋な痛烈な理想家の典型だと思つてゐますが、彼の伝記を読んだ人は、誰でも知ってゐる通り、少なくとも植木口の戦以後の彼の障害は、死処を求めるといふ一念を離れた事はなかった。さういふ人にとって、自殺とは、大願の成就に他ならず、記念撮影は疎か、何をする余裕だつて、いくらでもあつたのである。余裕のない方が、人間らしいなどといふのは、まことに不思議な考へ方である。これが、過去の一作家の趣味に止まるならば問題はない。僕が今こゝで問題だと言ふのは、かういふ考へ方が、先づ思ひ付きとして文学のうちに現れ、それが次第に人々の心に沁み拡り、もはやさういふ考へを持ってゐるといふ事なぞまるで意識しないでも済む様な、一種の心理地帯が、世間に拡って了ったといふ事であります。」
最後の小林の問題意識は、ここでは触れません。ただ僕は全くその通りだと思います。小林がこれを著したのは昭和16年のことです。翻って今日をみれば、戦慄するほどの「心理地帯」にあると思うのは僕だけではないでしょう。
唐木に戻ります。
「明治維新前後に生れ、幼時に四書五経の素読を受けたジェネレィション、すなわち今日在世すれば七・八十歳の思想家文筆家、すなわち鴎外、漱石、露伴、二葉亭、内村鑑三、西田幾太郎、そうしてその最後の型としての永井荷風と、明治二十年前後に生れた右の先達の門下とのあいだには明確な一線を劃せるのではないかと僕はかねがね考えていた。」
唐木はこれを「素読世代」と名付けます。そしてその特徴を次のように語ります。
「(素読世代は)儒教的な武士的な、卑屈をおよそ嫌う高潔なものをもっていた。たとえそれが四書五経とは全く反対な表現をとっていたにしても。そうしてその上に西洋を存分に吸収した。(中略)修身斉家治国平天下的な、そうしてまた十有五にして学に志し、七十にして矩をこえずの、経世済民の修業への意思が根本にあった。その上で西洋を学んだ。」
といいます。しかしながら、彼らは自ら「儒教的なものを意識し」「そのイデオロギーを奉じ」「それを培養しようとして」西洋を学んだのではないというのです。
「むしろ逆に西洋に没頭しながら、自分でも意識しないような根本に、あるいは骨格にそういうものがあったというのである。鴎外のあきらめ、漱石の神経衰弱、二葉亭の文学か政治かの悩み、露伴の小説放棄、鑑三の退官、西田哲学の悪戦苦闘、荷風の絶望等は、右のことを考慮しなければ理解しがたいものであろう。それらは、東洋と西洋、日本と外国との間の如何ともしがき相違、あるいは日本の後進性に由来する封建遺制と西洋近代との間隙を統一綜合しようとする苦悩のあらわれであった。彼らには苦悩を真に苦悩たらしめ、矛盾を真に矛盾たらしめ、その内心における相剋から創造へ転じ出るエネルギイの基礎をなす形、型、人格、性格があった。」
しかるに、彼らの弟子である世代にそれは見付けられないというのです。
「僕が今教養派と呼んでいる世代には、幼時あるいは少年時にその柔軟な骨格を型に形成する規範が無くなっていた。彼らは塾や寺子屋に座る代りに新式の学校教育をうけた。欧化主義が日本に表面化している時に育った。家庭の躾けも一般にいえばその基準に自信を喪ったときに育った。一言にしていえば、彼らは二代目の自由に中に成人した。形、型、性格を形成する規準が、鴎外のいう形式が失われた時代に育ち、そうしてみずからの思想的文筆的活動を始めうるにいたった大正期といふものが、前にも書いたとおりの複雑にして混沌たるものであったのである。」
大正期の「複雑にして混沌」という状況は、ソビエトの共産革命と日本での労働者階級というものの出現、そして藩閥政治への怨嗟、不満の声などを指しています。「江戸」を払拭しようとした「明治」は、続く大正にはいって、自身も払拭される対象となってしまうのです。そこから「社会改造」「国家改造」という言葉が出現してくるようになり、これは昭和11年の226事件でその檄発の最後を見ます。昭和を語るには大正を語らなければならない所以がここにもあります。そして大正を語るには明治を語らなければならない。しかし、明治を語るにはそれ以前を語る必要がないように思います。それほど江戸と明治の断絶はあるのです。
唐木の言う「型」、儒教的倫理というか武士的倫理というか、そういうものは単なるアナクロニズムなのでしょうか。僕はそうは思いません。普遍的な人倫の道であると確信しています。西洋から「ヒューマニズム」というものが入って来る以前から、この国社会は人間尊重ではない別の思想の文明がありました。それは「人間」を特別視しないということです。犬や馬や牛と同様、同じ命を持つものの一員にしか過ぎないというものでしょう。唐木は明治の「型」の喪失を表しましたが、喪われた「江戸」の文明の「型」の方が、その影響は大きかったと思います。
今日はこれまで。
「白樺派は人類の意思のおのずからなる発露、人類の素直な生長、個性の伸長を阻害するものと闘った。家、すなわち修身斉家の伝統の具体的な勢力と型をもつ家、家長の支配する家と闘った。殊にその同人たちが多く学習院出身者であるということ、すなわち名家の出であるということにおいてそれは顕著な、またいっそう触目的な傾向であった。」
当の幼き昭和天皇御自身は、終生にわたり乃木の謦咳に接したことを善き思い出と述べられたことは周知の事実。
http://3and1-ryo.blogspot.com/2010/08/65.html
明治の「修養」に変わって大正になると「教養」という言葉が使われるようになります。後者には「型」というイメージはありません。というより、「型にはまった」ことは軽蔑され、形式主義が斥けられるようになるのです。
その「教養」派にとっては、乃木の殉死さえも否定的なものとなります。唐木のいう「素読世代」、鴎外、漱石が受けた衝撃とは全く異なるものです。大正10年に発表された芥川龍之介の「将軍」という本があります。これについて小林秀雄はこんな風に語ります。
「『将軍』の作者が、この作を書いた気持は、まあ簡単ではないと察せられますが、世人の考へてゐる英雄乃木のいふものに対し、人間乃木を描いて抗議したいといふ気持ちは、明らかで、この考へは、作中、露骨に顔を出してゐる。(中略)作者が技巧を凝せば凝すほど、作者の意に反して乃木将軍のポンチ絵の様なものが出来上がる。最後に、これもポンチ絵染みた文学青年が登場しまして、こんな意味の事をいふ、将軍の自殺した気持は、僕等新しい時代の者にもわからぬ事はない、併し、自殺する前に記念の写真を撮ったといふ様な事は、何んの事からわからない。自分の友人も先日自殺したが、記念撮影をする余裕なぞありませんでしたよ。作者にしてみれば、これはまあ辛辣な皮肉とでもいふ積りなのでありませう。」
「僕は乃木将軍といふ人は、内村鑑三などと同じ性質の、明治が生んだ一番純粋な痛烈な理想家の典型だと思つてゐますが、彼の伝記を読んだ人は、誰でも知ってゐる通り、少なくとも植木口の戦以後の彼の障害は、死処を求めるといふ一念を離れた事はなかった。さういふ人にとって、自殺とは、大願の成就に他ならず、記念撮影は疎か、何をする余裕だつて、いくらでもあつたのである。余裕のない方が、人間らしいなどといふのは、まことに不思議な考へ方である。これが、過去の一作家の趣味に止まるならば問題はない。僕が今こゝで問題だと言ふのは、かういふ考へ方が、先づ思ひ付きとして文学のうちに現れ、それが次第に人々の心に沁み拡り、もはやさういふ考へを持ってゐるといふ事なぞまるで意識しないでも済む様な、一種の心理地帯が、世間に拡って了ったといふ事であります。」
最後の小林の問題意識は、ここでは触れません。ただ僕は全くその通りだと思います。小林がこれを著したのは昭和16年のことです。翻って今日をみれば、戦慄するほどの「心理地帯」にあると思うのは僕だけではないでしょう。
唐木に戻ります。
「明治維新前後に生れ、幼時に四書五経の素読を受けたジェネレィション、すなわち今日在世すれば七・八十歳の思想家文筆家、すなわち鴎外、漱石、露伴、二葉亭、内村鑑三、西田幾太郎、そうしてその最後の型としての永井荷風と、明治二十年前後に生れた右の先達の門下とのあいだには明確な一線を劃せるのではないかと僕はかねがね考えていた。」
唐木はこれを「素読世代」と名付けます。そしてその特徴を次のように語ります。
「(素読世代は)儒教的な武士的な、卑屈をおよそ嫌う高潔なものをもっていた。たとえそれが四書五経とは全く反対な表現をとっていたにしても。そうしてその上に西洋を存分に吸収した。(中略)修身斉家治国平天下的な、そうしてまた十有五にして学に志し、七十にして矩をこえずの、経世済民の修業への意思が根本にあった。その上で西洋を学んだ。」
といいます。しかしながら、彼らは自ら「儒教的なものを意識し」「そのイデオロギーを奉じ」「それを培養しようとして」西洋を学んだのではないというのです。
「むしろ逆に西洋に没頭しながら、自分でも意識しないような根本に、あるいは骨格にそういうものがあったというのである。鴎外のあきらめ、漱石の神経衰弱、二葉亭の文学か政治かの悩み、露伴の小説放棄、鑑三の退官、西田哲学の悪戦苦闘、荷風の絶望等は、右のことを考慮しなければ理解しがたいものであろう。それらは、東洋と西洋、日本と外国との間の如何ともしがき相違、あるいは日本の後進性に由来する封建遺制と西洋近代との間隙を統一綜合しようとする苦悩のあらわれであった。彼らには苦悩を真に苦悩たらしめ、矛盾を真に矛盾たらしめ、その内心における相剋から創造へ転じ出るエネルギイの基礎をなす形、型、人格、性格があった。」
しかるに、彼らの弟子である世代にそれは見付けられないというのです。
「僕が今教養派と呼んでいる世代には、幼時あるいは少年時にその柔軟な骨格を型に形成する規範が無くなっていた。彼らは塾や寺子屋に座る代りに新式の学校教育をうけた。欧化主義が日本に表面化している時に育った。家庭の躾けも一般にいえばその基準に自信を喪ったときに育った。一言にしていえば、彼らは二代目の自由に中に成人した。形、型、性格を形成する規準が、鴎外のいう形式が失われた時代に育ち、そうしてみずからの思想的文筆的活動を始めうるにいたった大正期といふものが、前にも書いたとおりの複雑にして混沌たるものであったのである。」
大正期の「複雑にして混沌」という状況は、ソビエトの共産革命と日本での労働者階級というものの出現、そして藩閥政治への怨嗟、不満の声などを指しています。「江戸」を払拭しようとした「明治」は、続く大正にはいって、自身も払拭される対象となってしまうのです。そこから「社会改造」「国家改造」という言葉が出現してくるようになり、これは昭和11年の226事件でその檄発の最後を見ます。昭和を語るには大正を語らなければならない所以がここにもあります。そして大正を語るには明治を語らなければならない。しかし、明治を語るにはそれ以前を語る必要がないように思います。それほど江戸と明治の断絶はあるのです。
唐木の言う「型」、儒教的倫理というか武士的倫理というか、そういうものは単なるアナクロニズムなのでしょうか。僕はそうは思いません。普遍的な人倫の道であると確信しています。西洋から「ヒューマニズム」というものが入って来る以前から、この国社会は人間尊重ではない別の思想の文明がありました。それは「人間」を特別視しないということです。犬や馬や牛と同様、同じ命を持つものの一員にしか過ぎないというものでしょう。唐木は明治の「型」の喪失を表しましたが、喪われた「江戸」の文明の「型」の方が、その影響は大きかったと思います。
今日はこれまで。
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