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2010年11月16日火曜日

政治行動

 言うまでもなく、政治行動の究極の形は「テロ」であります。


今上映中の「桜田門外の変」もテロですね。






一番新しいその記憶は、昭和35年の社会党の浅沼委員長への「テロル」でしょう。


「山口二矢(おとや)」という、当時17歳の少年による犯行でした。浅沼が国交回復前の中国を訪問し、




「米帝国主義は日中共同の敵」


という言説を吐いたことに、腹を立てての犯行でした。。彼は留置所だったかな、その中で首つり自殺を遂げます。「七生報国」という遺書を残して。


 
 さて、そもそも政治というものは主義主張の対立するものを抹殺しなければならないものです。「テロル」というのは、その抹殺手段に言葉ではなく、力を行使するだけだとも言えます。思想的に考えれば、政治の一行動といえるものです。




「民主主義の時代にテロルなどとんでもない」


世の中一般ではこう言います。要するに、言葉で戦う土俵上に、それ以外のものを持ち込むことはまかりならんというわけですね。この場合は、「力」というか、「暴力」といってもいいでしょう。


ならば、「数の力」は暴力ではないのか?


あくまでも思想的に言ってます。


同じ事です。


かつて世を騒がせた、全学連でも全共闘でも、彼らは「テロル」でなく「デモ」という手段を使ってこの国のありようを左右しようと目論んだ。これこそ、衆をたのんで、つまりは数を力を以て世の中を恫喝したわけ。どう考えても、美しい振る舞いではない。


それをあるべき姿と見るべきなのか?


デモによって政治が左右される世の中を是とみるのか?


僕は真っ平御免だ。


 


今日はこれまで。























2010年11月15日月曜日

出会い

 10月にmixiの日記にコメントをつけてから、その人の関係が始まりました。
その返信に、僕と似ているものを即座に感じ取りましたので、マイミクになって頂きました。
前にここで紹介した渡辺京二「逝きし世の面影」はその彼に教えてもらったものです。


http://3and1-ryo.blogspot.com/2010/10/blog-post_19.html


浄土真宗に関わる「非僧非俗」という日記に対して、明治後の日本仏教の自堕落、出タラメ加減に意見を一にし、和辻哲郎の「日本倫理思想史」に話が及ぶにいたっては、彼の博学振りに目を見張りました。




その後、福澤諭吉について僕に再認識、再評価の目を開かせてくれ、20歳の頃に毛嫌いしてから、ほとんど学んでいなかった福沢諭吉の言説は、最近の僕の考えを裏付けてくれているようなものだと思うようになりました。


つまり、僕を啓蒙してくれたのです。


その彼と、昨日リアルで会い、一献傾けて参りました。


彼は若干29歳!


博士のたまごで、日本思想史を学んでいる学究の青年でありました。


例え話や、考えを述べるのに、「相手は知っているだろうか?」というためらいなしに議論が出来たのは、私にとっては初めての経験でした。6時間半も延々と飲み、話し、時間があっという間に過ぎて行きました。


世の中にこんな青年がいたのかという嬉しい驚きです。他日の再会を期したのは言うまでもありません。


機会があれば、メンバーの皆にも紹介したいと思います。


 今日はこれまで。



2010年11月14日日曜日

この世の楽園とは・・・

「英国人写真家の見た明治日本」著者ハーバード・G・ポンティング。


副題に「この世の楽園・日本」とつけられています。著者のポンティングは、スコットの南極探検に同行した写真家であり、彼は明治35年(1902)頃に初めて来日し、明治39年(1906)までの間、日本を度々訪れ、日露戦争勃発後はアメリカの雑誌社の特派員として日本陸軍の第一師団に順従軍している。日本での彼の滞在期間は、合計で3年ほどあったらしい。


彼は離日後の明治43年(1906)に、日本での滞在記録を自身が撮影した豊富な写真とともに出版したのだが、その題名が


「この世の楽園・日本」


であった。


前に紹介したチェンバレンの日本事物詩では


http://3and1-ryo.blogspot.com/2010/11/bh.html


ポンティングが日本に滞在した頃の日本を、その急激な変化の波に洗われていく様子を、「古き日本は死んでしまった」と表現しましたが、その頃でさえなお、初めて日本を訪れた英国人写真家をして「この世の楽園」と言わしめるほどの「なにものか」をこの国は持っていたことになります。


 本書の特徴は、豊富かつ素晴らしい写真の数々です。彼が旅行した日本の各地の風景だけにとどまらず、日常の日本人の暮らしぶりが写真に収められ、その生き生きとした表情には僕らが息をのむような美しさがあります。


 本書の中で、ポンティングは日本の婦人を絶賛してます。


「日本を旅行するときに一番すばらしいことだと思うのは、何かにつけて婦人たちの優しい手助けなしには一日たりとも過せないことである。」


 ご承知かも知れませんが、人前で決して涙を見せない日本婦人に対しては「冷たく同情にかける」という誤解が外国人の中でありました。出征する自分の夫を見送るとき、またはその死と対面するとき、日本の婦人は強い自制をもって泣き叫んだり、取り乱したりすることがなかったからです。


「前線に行く許可を日本で待っていた間に、私は哀しい光景を何度か目撃した。戦場へ行く船に乗り込む前に、兵隊が妻や母親に最後の別れを告げる場面を多く見たが、そこで、彼らが涙を流しているのを見たことがない。逆に笑顔を見たことは何度もある。というのは、日本では笑顔は心の中の苦しさを隠す仮面となっているからだ。婦人たちの表情は毅然として少しも気落ちしていないようにみえたが、こんなに可愛らしく心優しい人々にとって、それだけうわべを装うのはかなり難しいことであったにちがいない。別れるときは抱擁をしないでお辞儀を何度も繰り返し、優しい声で何回もナヨナラを言った。」


こう、目撃した場面を綴ったあと、著者は次のように続けます。


「別れが終わって、妻と母親が背を向けて主人のいない家へ帰って行くとき、彼女たちの胸の奥深く潜む不安と心配を知りたいと思っても、その外観からはそれを窺わせるものを何一つ見いだすことはできないだろう。何故なら彼女の顔は、死を覚悟しながら笑みを浮かべて出征していった夫の顔と同じように、何世紀もの間、感情を抑制することに慣らされてきた民族に独特の偽りの仮面だからである。」




 今日はこれまで。

2010年11月13日土曜日

もしそんなことになったら日本は亡びる・・・

昭和7年5月15日に犬養首相が暗殺された、世に言う5.15事件。


「話せばわかる」


「問答無用」


の犬養首相と海軍将校の暗殺直前のやり取りが有名ですが、撃たれた犬養首相は気丈にも


「あの者どもを連れて来い。話して聞かしてやる」


と駆けつけた人たちに言い続けたといいます。


 実行犯であった海軍将校は海軍の軍事法廷、連座した陸軍士官学校生徒は陸軍の軍事法廷、橘孝三郎率いる愛郷塾塾生たちは一般の裁判所で裁かれます。世論は圧倒的に犯人たちに同情的でした。減刑嘆願書は100万通を数えた程です。仮にも一国の首相が暗殺され、その犯人は現役の海軍軍人だったのですから、事は非常に重大。海軍の軍事法廷は「死刑」の極刑をもって臨もうとします。しかし、世論とそれを焚きつける新聞報道によって、それは大きく捻じ曲げられるようになるのです。


 この頃の思い出を、竹山道雄が「昭和精神史」という本の中に書いています。竹山道雄は「ビルマの竪琴」の作者です。


「岡田良平という枢密顧問官がいて、反動教育家として悪口をいわれていたが、この人は私の伯父だった。あの裁判がすすんでいるとき、私は老人にこういった。
『青年将校たちは死刑になるべきでしょう』
老人は答えた。
『わしらも情としては忍びない気もしないではないが、あれはどうしても死刑にしなくてはならぬ』
私はいった。
『しかし、もしそうと決ったら、仲間が機関銃をもちだして救けにくるから、死刑にはできないだろうといますが』
『そうかも知れぬ』と老人はうなづいて、しばらく黙った。そして、顔をあげて身をのりだして、目に口惜しそうな光をうかべて語気あらくいった。『もしそんなことになったら、日本は亡びる』
 そのとき私は『亡びるとうのは大袈裟だなあ―』と思った。しかし、後になって空襲のころによくこれを思いだした―『やっぱりあれは大袈裟ではなかった』」


 判決は、事件の首謀者であった海軍将校2名の懲役15年が最も重く、13年、10年の禁固刑と続き、それ以外は執行猶予がつきます。なお、首謀者への求刑は「死刑」でした。


 陸軍では全員が禁固4年の実刑でした。


 一般の裁判所で裁かれた民間人らは、最も重いのが橘孝三郎の無期懲役を筆頭に、懲役15年が3名もあり、最も軽い刑は懲役3年6カ月というもので、陸海軍の軍事法廷での量刑とは大きな差がありました。


 この事件は海軍青年将校が「主」として企て、実行し、陸軍士官学校生徒は「従」、愛郷塾性らの民間人は「従の従」くらいのものです。参加民間人の使命は変電所を襲って停電させることでしたが、それは失敗しているために実際の被害状況はかなり軽微です。にもかかわらず、この量刑の差です。


 この結末が、4年後の2.26事件を生む一因になります。それを引き起こす陸軍青年将校らは、「事が起こっても必ず軍は俺たちを守ってくれる」と確信するからです。ちなみに、2.26事件の首謀者となる陸軍青年将校らは、5.15事件の時には海軍側からのたび重なる蹶起への依頼を断り続けます。「時期尚早」というのが陸軍青年将校らの言い分でした。


 


 つい最近物置を整理していて、初めての「東京見物」を題材とした僕の作文が出てきました。昭和46年当時のものです。東京タワーにのぼり、「きどうたいとがくせい」の騒ぎを父親に尋ねています。そういえば、そんな記憶がかすかにあるような気もします。


 2.26事件に連座し、無期懲役刑を受けた山口一太郎という陸軍大尉がいます。彼は蹶起将校らからは「別格」と呼ばれ、「蹶起」という直接行動には与しないが、後輩である蹶起将校らに理解を示していた「革新将校」の一人でした。


 戦後、山口は反政府デモを繰り広げる学生らの数を目にして、次のようにつぶやきます。


「これだけの一般人が我々に味方してくれていたら、あの事件は一挙になった」


事実、その可能性はあったのかもしれませんが、これは後知恵だと僕は思います。彼らは「軍人」でしたから、「衆をたのんで」事を起こすなどとはただの一度も考えた事はなかったと思います。「軍」こそが社会の腐敗堕落を糺すことができると思っていたからです。


 2.26事件の裁判においては、減刑運動は起こりませんでした。軍は法律を曲げてまで非公開の軍事法廷を開いたからです。また、将校らに勝手に連れだされた兵士たちの親が大騒ぎもしました。軍は徴兵制の危機を感じ取ります。都合のいい時だけ彼らを利用し、おだてあげ、都合が悪くなって彼らを切り捨てたのです。実行犯に対し極刑をなしただけを「粛軍」と称し、以降事あるごとに国の政治を左右するようになっていくのは周知の事実。






 国が「亡びる」というより、国運が傾くとか、国力が衰えると言い換えると、この国は見事ににその要件を満たしていますね。何も経済という社会の下部構造だけの事を問題にしているのではありませんよ。本来その上の乗っかって居るべき上部構造、即ち人々の生きかたや暮らし方、会話のマナーやルール、その総体としての文化や文明というもの、そんなもの霧散霧消してしまっているように僕には思えるからです。


これまでは経済だけは「一流」と呼ばれていたので、その「つけ」を払わずに済んでいただけだと思いますが、今や一気にそれを払わなければならないような状況に陥っているように思えます。稀薄な家族関係の記事は記憶に新しいですね。肉親が死んでも、年金目当てでそれを申告しない。「行旅死亡人」として扱われる、引き取り手のいない孤独な死者は、年間の交通事故死者数をはるかに超える。社会の最低単位である家族の状況ですら、このように寒々としています。


 尖閣の漁船衝突事件に関わる問題では「日中関係の重要性を鑑み」と言われ、重要性の中身はただ単に「経済的なつながり」だという。TPPの交渉開始については、「農業生産額と製造業生産額の多寡」あるいは「雇用人口の多寡」だけが問題となる。要するに「カネ」のことしかないのですね、この国は。






 「日本では宗教教育のかわりに武士道がある」


新渡戸の生きた時代にはこれが通用したのかもしれません。しかし、戦後の日本はそれを否定した。その代りに何をもってきたのでしょう。「平和教育」?もうアホくさくて嫌になります・・・。


前にも書きました。「命」が大事と教えたいのなら、人間とそれ以外の差をきちんと教えるべきです。そうでないなら、すべての殺生を禁じることを教えなければならない。それができないのなら、「人間は他の命あるモノを食べなければならない」、その罪深さを教えて、すべての自然に対して謙虚に向き合う事を教えるべきだと思います。そして「人間とは何か」をきちんと考えさせる・・・。


 このままでは「エコノミックアニマル」だけが大量に住む国になってしまうかも知れません。


もしそんなことになったら日本は亡びる・・・。
 
 今日はこれまで。



2010年11月12日金曜日

袋小路に・・・

 幕末から明治初頭に来日した多くの外国人の記録を見ると、かつてのこの国の社会は、人間も動物も分け隔てのない暮らしをしていた事がわかります。いくつかその例を紹介してきました。「江戸の町には犬が多い」と多くの外国人が書いていて、「江戸の犬は人間が石を拾って投げつけようとしても逃げない」と、彼らの祖国での犬の様子と異なることを書いています。中には刀傷と思われる大きな傷痕を背中に残した犬もいたようですが、誰が飼い主であるわけでもなく、その町全体で多くの犬を養っているようだと書いた人もいます。


 肉を食べる習慣もなく、牛の乳を「子牛から横取り」して飲む習慣もなく、鶏は飼っていても卵だけが目的で、馬は去勢も調教もされていない・・・。


 日本の社会は、いつからそうだったのか、その経緯を考えると袋小路に入ってしまいました。


悪名高い「生類憐みの令」の世に知られる事の「嘘」は以前ここで書きました。


http://3and1-ryo.blogspot.com/2010/09/2.html

病気の馬や犬を棄てるな!という法令が出たということは、それまでそう言う事が日常的に行われていたことを表します。それが、幕末から明治の頃にはそんな事など微塵も感じさせない世の中になるですから、この「生類憐みの令」なる法令の浸透で世の中が変わったことになります。


 そんな事ありえるのでしょうか。というのが僕の疑問です。




 もし、あり得たのならばどのような過程を経たのかが大いに知りたいところであります。


江戸期以前の人間と動物の関わり方はどうだったのか?
江戸期に入ってどう変わったのか?
変わったとするのなら、その原因は何なのか?


 疑問は果てしなく広がります。一冊で僕の疑問に答えてくれる本はないかしらと切に願っています。

 今日はこれまで。

2010年11月11日木曜日

衝突ビデオ流出問題に一石を投じる

 昨日youtubeに中国漁船と海保の巡視艇との衝突ビデオを流出させた人が自ら名乗り出たらしいですね。
勤務先近くの漫画喫茶から投稿したとか・・・。国家公務員守秘義務違反とかいうもので裁かれるらしいですが、僕は「犯人」という言葉をどうも使いたくないのです。大方の人もそうではないでしょうか。


 さて、「国家公務員守秘義務」というものはよく判りませんね。例えば新聞記者とかの「夜討ち朝駆け」によって、検察とかの人がよく断言しないまでもそれらしいことを「匂わす」ということがありますよね。それが記事になりますから。そういうのはそれに問われないのでしょうか。いろいろ疑問があります。


 これが疑問の第一点。


 次に、関係部局の多くの人が見られるビデオ映像は「国家機密」にあたるのでしょうか。


 これが疑問の第二点。


 最後に、編集したビデオというのは、裁判などで「証拠物件」として正式に認められるのでしょうか。


 この3点が疑問です。


 ネット上では、流出させた人物を「英雄」扱いしている論調が圧倒的におおいですね。ただ、僕はあえてそれに異を唱えます。細かいことは知りませんが、その理由を考えると、


「単なる人騒がせを狙った」


「義憤に駆られてやった」


のどちらかであろうと思いますが、まあ前者なら論外ですので、後者について僕の意見を述べます。


 いかに「義憤」に駆られてやった行動だとしても、僕は「卑怯」だと思いますね。理由は簡単です。「匿名」で投稿したからです。そして、足がつきそうな段階になってそれを「申し出た」からです。これはやはり「卑怯者」の振る舞いだと思います。


 今回の尖閣騒動での「俄か国士」も含めて、その問題に対して多くの人が憤っているのは事実でしょう。当事者であった彼も「義憤」を感じたのもよくわかります。現場の意見を代弁したんだと・・・。
僕もそれには100%賛意を表します。行動を責めるつもりなど毛頭ありません。ただ、なぜ実名で投稿する、若しくは直に申し出なかったのか、それが残念なのです。仮に、足がつきそうになかった場合には、ずっと頬っかむりしたわけでしょう。それはどう考えても「正義」の振る舞いではありませんね。

 昭和5年(1930)のロンドン軍縮条約。対米英の保有艦比率の低下に、「国防を全うすること能わず」として一人の海軍少佐が自刃しました。「諌死」ですね。僕自身には、そのような勇気はありませんし、今回の海保の人物にも同じようなことをすべきだったと言うつもりはありませんが、実名で投稿する、若しくはすぐに自首するということがなかったのが、僕は非常に残念に思うわけです。


 


 今日はこれまで。



2010年11月10日水曜日

ベルツの日記

12月1日


 日本人とは驚嘆すべき国民である!


こう日記に書いたのは、エルヴィン・フォン・ベルツ。草津温泉を世界中に知らしめたベルツ博士と言えば有名でしょう。


明治9年、来日して半年後の事です。11月29日夜半に日本橋から築地に至る一体が大火に見舞われ、1万戸以上が灰燼に帰してしまったことを聞いた翌日の事です。この感嘆符のあとに続く文章はこうです。


「今日午後、火災があってから36時間たつかたたぬに、はや現場では、せいぜい板小屋と称すべき程度のものであるが、千戸以上の家屋が、まるで地から生えたように立ち並んでいる。まだ残骸がいぶり、余燼もさめやらぬうちに日本人は、かれらの控えめな要求なら十分に満足させる新しい住居を魔法のような速さで組み立てるのだ。」


彼は来日する前に聞かされていた、いかなる悲運でも迎えることのできる日本人の「無頓着さ」というものを目のあたりにして、日記にそう書かしめるほど驚嘆せざるを得なかったのです。


「小屋がけをしたり、焼跡をかき探したりしていないものはといえば、例の如く一服をつける楽しみにふけっている。女や男や子供たちが三々五々小さい火を囲んですわり、タバコをふかしたりしゃべったりしている。かれらの顔には悲しみの跡形もない。」




 さて、ベルツ博士はドイツで生まれの内科医です。ある縁から日本政府に招かれて東京医学校(現東京大学医学部)の教授として来日するのです。その時若干27歳。僕は、温泉の効用を日本人に医学的にわかりやすく伝え、群馬県草津温泉の効能、その風景、人情の素晴らしさを世界に発信した彼は、相当な老人だったのだろうと勝手に想像していましたが、豈はからんや・・・。27歳で来日し、その後約30年に渡って日本に暮した人物でした。


彼は、来日5年後の明治14年に日本人女性ハナと結婚し、トク、ウタと名付けた子供をもうけます。ところが、ウタと名付けられた長女は、3歳のお祝いの節句を前に急死していまいます。


その深い悲しみを綴った彼の日記は悲痛です。


「明後日、わたしたちはかわいい子供を葬るのです。
思っただけでも、それはたまらないことです!どんなにあの子は、わたしを慕っていた事か。わたしが帰宅する時、馬車か人力車の響きを聞き、召使いが日本の風習で「だんなさまのお帰り」と叫びますと、あの子はどんな遊びをしていても、そのままにやめ、ちょうど手にしたていたものが何であろうと、すべてをほうり投げ、ちょこちょこと小さな足で大急ぎに急ぎ、両手を拡げてわたしの方へかけよって、わたしの脚に擦りつけるのでした。高く挙げてやると、あの子は特有の笑い声をあげるのですが、その声は今でもなお、耳に残っており、わたしにとっては何よりも甘美な音楽でした。
 
もう過ぎ去った、過ぎ去ったことです!」








 ベルツは、壮年期のほぼすべてを日本で過ごし、明治38年にドイツへ帰国します。それは、ほんのこどもであったこの国がたくましく成長していく過程と同時期でした。


彼は大正2年(1913)、シュトゥットガルトで64年の生涯を閉じます。死ぬ間際、彼は江戸の残映を色濃く残し、英国人写真家H.G.ポンティングが「この世の楽園」と呼んだ「日本」の全てを想起したに違いありません。


 今日はこれまで。