頑張ろう日本
この言葉を目にしない日はないといっていい。震災からもうすぐ3カ月が経過するのに、被災地では未だ瓦礫の撤去も進まず、避難所に暮らしている人が多くいる。「復興」とは程遠い現状である。肉親を失い、住む家も職も失い、将来のことなど微塵も考えられない多くの被災した人びとに、はたしてそんな言葉が通じるのだろうかと考えてしまう。
もはや「頑張ろう」などという言葉は非常に空疎なものと感じられてしまうのだ。
僕は、震災直後にこのブログで「頑張れ」とは書いた。でも「頑張ろう」とはとても書けなかった。そう書くことにある種の恥ずかしさを感じたからだ。
震災1週間後、「東北関東で大地震その7」http://3and1-ryo.blogspot.com/2011/03/7.html
で「挽歌」を書いた。死者の魂と生者の哀しみを鎮めるためだ。
その翌日の「その8」http://3and1-ryo.blogspot.com/2011/03/8.html
では「祈り」を書いた。僕らにできることは、それしかないだろうと思ったからだ。
そして、今もその思いは変わらない。だから「頑張ろう」という言葉は書けない。大体何を「頑張れ」というのだろうか。いや、「頑張ろう」というのだから「頑張れ」とも違う。そしてそこに「日本」という言葉が入るに及んでは、一体何のことかわからなくなる。
思いもかけぬ犯罪、不慮の事故にまき込まれて哀しみに暮れるひと、茫然自失のひとに向かって「頑張ろう」などという言葉は決して書けないのに、ある意味同じような境遇に置かれた被災地の人にむかって、なぜそんな言葉使いをするのだろう。
もう少し、文明人らしいというか、宗教的感情をもったような言葉を使えないのだろうか、とつくづく思う。
誤解なきよう言っておくが、僕は多くの企業が売り上げの数%を寄付したりする、そういう取り組みを否定、反対しているわけではない。そういう行動は素晴らしいと思うし、各個人がそういった取り組みに賛同するのも当然だとは思う。ただ、その善意というか、「私」を棄て「公」に報いようという価値ある取り組みが、そんな空疎な言葉で表現されるのがおかしいと思うだけだ。
僕はひねくれているのだろうか。
今日はこれまで。
この言葉を目にしない日はないといっていい。震災からもうすぐ3カ月が経過するのに、被災地では未だ瓦礫の撤去も進まず、避難所に暮らしている人が多くいる。「復興」とは程遠い現状である。肉親を失い、住む家も職も失い、将来のことなど微塵も考えられない多くの被災した人びとに、はたしてそんな言葉が通じるのだろうかと考えてしまう。
もはや「頑張ろう」などという言葉は非常に空疎なものと感じられてしまうのだ。
僕は、震災直後にこのブログで「頑張れ」とは書いた。でも「頑張ろう」とはとても書けなかった。そう書くことにある種の恥ずかしさを感じたからだ。
震災1週間後、「東北関東で大地震その7」http://3and1-ryo.blogspot.com/2011/03/7.html
で「挽歌」を書いた。死者の魂と生者の哀しみを鎮めるためだ。
その翌日の「その8」http://3and1-ryo.blogspot.com/2011/03/8.html
では「祈り」を書いた。僕らにできることは、それしかないだろうと思ったからだ。
そして、今もその思いは変わらない。だから「頑張ろう」という言葉は書けない。大体何を「頑張れ」というのだろうか。いや、「頑張ろう」というのだから「頑張れ」とも違う。そしてそこに「日本」という言葉が入るに及んでは、一体何のことかわからなくなる。
思いもかけぬ犯罪、不慮の事故にまき込まれて哀しみに暮れるひと、茫然自失のひとに向かって「頑張ろう」などという言葉は決して書けないのに、ある意味同じような境遇に置かれた被災地の人にむかって、なぜそんな言葉使いをするのだろう。
もう少し、文明人らしいというか、宗教的感情をもったような言葉を使えないのだろうか、とつくづく思う。
誤解なきよう言っておくが、僕は多くの企業が売り上げの数%を寄付したりする、そういう取り組みを否定、反対しているわけではない。そういう行動は素晴らしいと思うし、各個人がそういった取り組みに賛同するのも当然だとは思う。ただ、その善意というか、「私」を棄て「公」に報いようという価値ある取り組みが、そんな空疎な言葉で表現されるのがおかしいと思うだけだ。
僕はひねくれているのだろうか。
今日はこれまで。
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