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2010年11月13日土曜日

もしそんなことになったら日本は亡びる・・・

昭和7年5月15日に犬養首相が暗殺された、世に言う5.15事件。


「話せばわかる」


「問答無用」


の犬養首相と海軍将校の暗殺直前のやり取りが有名ですが、撃たれた犬養首相は気丈にも


「あの者どもを連れて来い。話して聞かしてやる」


と駆けつけた人たちに言い続けたといいます。


 実行犯であった海軍将校は海軍の軍事法廷、連座した陸軍士官学校生徒は陸軍の軍事法廷、橘孝三郎率いる愛郷塾塾生たちは一般の裁判所で裁かれます。世論は圧倒的に犯人たちに同情的でした。減刑嘆願書は100万通を数えた程です。仮にも一国の首相が暗殺され、その犯人は現役の海軍軍人だったのですから、事は非常に重大。海軍の軍事法廷は「死刑」の極刑をもって臨もうとします。しかし、世論とそれを焚きつける新聞報道によって、それは大きく捻じ曲げられるようになるのです。


 この頃の思い出を、竹山道雄が「昭和精神史」という本の中に書いています。竹山道雄は「ビルマの竪琴」の作者です。


「岡田良平という枢密顧問官がいて、反動教育家として悪口をいわれていたが、この人は私の伯父だった。あの裁判がすすんでいるとき、私は老人にこういった。
『青年将校たちは死刑になるべきでしょう』
老人は答えた。
『わしらも情としては忍びない気もしないではないが、あれはどうしても死刑にしなくてはならぬ』
私はいった。
『しかし、もしそうと決ったら、仲間が機関銃をもちだして救けにくるから、死刑にはできないだろうといますが』
『そうかも知れぬ』と老人はうなづいて、しばらく黙った。そして、顔をあげて身をのりだして、目に口惜しそうな光をうかべて語気あらくいった。『もしそんなことになったら、日本は亡びる』
 そのとき私は『亡びるとうのは大袈裟だなあ―』と思った。しかし、後になって空襲のころによくこれを思いだした―『やっぱりあれは大袈裟ではなかった』」


 判決は、事件の首謀者であった海軍将校2名の懲役15年が最も重く、13年、10年の禁固刑と続き、それ以外は執行猶予がつきます。なお、首謀者への求刑は「死刑」でした。


 陸軍では全員が禁固4年の実刑でした。


 一般の裁判所で裁かれた民間人らは、最も重いのが橘孝三郎の無期懲役を筆頭に、懲役15年が3名もあり、最も軽い刑は懲役3年6カ月というもので、陸海軍の軍事法廷での量刑とは大きな差がありました。


 この事件は海軍青年将校が「主」として企て、実行し、陸軍士官学校生徒は「従」、愛郷塾性らの民間人は「従の従」くらいのものです。参加民間人の使命は変電所を襲って停電させることでしたが、それは失敗しているために実際の被害状況はかなり軽微です。にもかかわらず、この量刑の差です。


 この結末が、4年後の2.26事件を生む一因になります。それを引き起こす陸軍青年将校らは、「事が起こっても必ず軍は俺たちを守ってくれる」と確信するからです。ちなみに、2.26事件の首謀者となる陸軍青年将校らは、5.15事件の時には海軍側からのたび重なる蹶起への依頼を断り続けます。「時期尚早」というのが陸軍青年将校らの言い分でした。


 


 つい最近物置を整理していて、初めての「東京見物」を題材とした僕の作文が出てきました。昭和46年当時のものです。東京タワーにのぼり、「きどうたいとがくせい」の騒ぎを父親に尋ねています。そういえば、そんな記憶がかすかにあるような気もします。


 2.26事件に連座し、無期懲役刑を受けた山口一太郎という陸軍大尉がいます。彼は蹶起将校らからは「別格」と呼ばれ、「蹶起」という直接行動には与しないが、後輩である蹶起将校らに理解を示していた「革新将校」の一人でした。


 戦後、山口は反政府デモを繰り広げる学生らの数を目にして、次のようにつぶやきます。


「これだけの一般人が我々に味方してくれていたら、あの事件は一挙になった」


事実、その可能性はあったのかもしれませんが、これは後知恵だと僕は思います。彼らは「軍人」でしたから、「衆をたのんで」事を起こすなどとはただの一度も考えた事はなかったと思います。「軍」こそが社会の腐敗堕落を糺すことができると思っていたからです。


 2.26事件の裁判においては、減刑運動は起こりませんでした。軍は法律を曲げてまで非公開の軍事法廷を開いたからです。また、将校らに勝手に連れだされた兵士たちの親が大騒ぎもしました。軍は徴兵制の危機を感じ取ります。都合のいい時だけ彼らを利用し、おだてあげ、都合が悪くなって彼らを切り捨てたのです。実行犯に対し極刑をなしただけを「粛軍」と称し、以降事あるごとに国の政治を左右するようになっていくのは周知の事実。






 国が「亡びる」というより、国運が傾くとか、国力が衰えると言い換えると、この国は見事ににその要件を満たしていますね。何も経済という社会の下部構造だけの事を問題にしているのではありませんよ。本来その上の乗っかって居るべき上部構造、即ち人々の生きかたや暮らし方、会話のマナーやルール、その総体としての文化や文明というもの、そんなもの霧散霧消してしまっているように僕には思えるからです。


これまでは経済だけは「一流」と呼ばれていたので、その「つけ」を払わずに済んでいただけだと思いますが、今や一気にそれを払わなければならないような状況に陥っているように思えます。稀薄な家族関係の記事は記憶に新しいですね。肉親が死んでも、年金目当てでそれを申告しない。「行旅死亡人」として扱われる、引き取り手のいない孤独な死者は、年間の交通事故死者数をはるかに超える。社会の最低単位である家族の状況ですら、このように寒々としています。


 尖閣の漁船衝突事件に関わる問題では「日中関係の重要性を鑑み」と言われ、重要性の中身はただ単に「経済的なつながり」だという。TPPの交渉開始については、「農業生産額と製造業生産額の多寡」あるいは「雇用人口の多寡」だけが問題となる。要するに「カネ」のことしかないのですね、この国は。






 「日本では宗教教育のかわりに武士道がある」


新渡戸の生きた時代にはこれが通用したのかもしれません。しかし、戦後の日本はそれを否定した。その代りに何をもってきたのでしょう。「平和教育」?もうアホくさくて嫌になります・・・。


前にも書きました。「命」が大事と教えたいのなら、人間とそれ以外の差をきちんと教えるべきです。そうでないなら、すべての殺生を禁じることを教えなければならない。それができないのなら、「人間は他の命あるモノを食べなければならない」、その罪深さを教えて、すべての自然に対して謙虚に向き合う事を教えるべきだと思います。そして「人間とは何か」をきちんと考えさせる・・・。


 このままでは「エコノミックアニマル」だけが大量に住む国になってしまうかも知れません。


もしそんなことになったら日本は亡びる・・・。
 
 今日はこれまで。



2010年11月12日金曜日

袋小路に・・・

 幕末から明治初頭に来日した多くの外国人の記録を見ると、かつてのこの国の社会は、人間も動物も分け隔てのない暮らしをしていた事がわかります。いくつかその例を紹介してきました。「江戸の町には犬が多い」と多くの外国人が書いていて、「江戸の犬は人間が石を拾って投げつけようとしても逃げない」と、彼らの祖国での犬の様子と異なることを書いています。中には刀傷と思われる大きな傷痕を背中に残した犬もいたようですが、誰が飼い主であるわけでもなく、その町全体で多くの犬を養っているようだと書いた人もいます。


 肉を食べる習慣もなく、牛の乳を「子牛から横取り」して飲む習慣もなく、鶏は飼っていても卵だけが目的で、馬は去勢も調教もされていない・・・。


 日本の社会は、いつからそうだったのか、その経緯を考えると袋小路に入ってしまいました。


悪名高い「生類憐みの令」の世に知られる事の「嘘」は以前ここで書きました。


http://3and1-ryo.blogspot.com/2010/09/2.html

病気の馬や犬を棄てるな!という法令が出たということは、それまでそう言う事が日常的に行われていたことを表します。それが、幕末から明治の頃にはそんな事など微塵も感じさせない世の中になるですから、この「生類憐みの令」なる法令の浸透で世の中が変わったことになります。


 そんな事ありえるのでしょうか。というのが僕の疑問です。




 もし、あり得たのならばどのような過程を経たのかが大いに知りたいところであります。


江戸期以前の人間と動物の関わり方はどうだったのか?
江戸期に入ってどう変わったのか?
変わったとするのなら、その原因は何なのか?


 疑問は果てしなく広がります。一冊で僕の疑問に答えてくれる本はないかしらと切に願っています。

 今日はこれまで。

2010年11月11日木曜日

衝突ビデオ流出問題に一石を投じる

 昨日youtubeに中国漁船と海保の巡視艇との衝突ビデオを流出させた人が自ら名乗り出たらしいですね。
勤務先近くの漫画喫茶から投稿したとか・・・。国家公務員守秘義務違反とかいうもので裁かれるらしいですが、僕は「犯人」という言葉をどうも使いたくないのです。大方の人もそうではないでしょうか。


 さて、「国家公務員守秘義務」というものはよく判りませんね。例えば新聞記者とかの「夜討ち朝駆け」によって、検察とかの人がよく断言しないまでもそれらしいことを「匂わす」ということがありますよね。それが記事になりますから。そういうのはそれに問われないのでしょうか。いろいろ疑問があります。


 これが疑問の第一点。


 次に、関係部局の多くの人が見られるビデオ映像は「国家機密」にあたるのでしょうか。


 これが疑問の第二点。


 最後に、編集したビデオというのは、裁判などで「証拠物件」として正式に認められるのでしょうか。


 この3点が疑問です。


 ネット上では、流出させた人物を「英雄」扱いしている論調が圧倒的におおいですね。ただ、僕はあえてそれに異を唱えます。細かいことは知りませんが、その理由を考えると、


「単なる人騒がせを狙った」


「義憤に駆られてやった」


のどちらかであろうと思いますが、まあ前者なら論外ですので、後者について僕の意見を述べます。


 いかに「義憤」に駆られてやった行動だとしても、僕は「卑怯」だと思いますね。理由は簡単です。「匿名」で投稿したからです。そして、足がつきそうな段階になってそれを「申し出た」からです。これはやはり「卑怯者」の振る舞いだと思います。


 今回の尖閣騒動での「俄か国士」も含めて、その問題に対して多くの人が憤っているのは事実でしょう。当事者であった彼も「義憤」を感じたのもよくわかります。現場の意見を代弁したんだと・・・。
僕もそれには100%賛意を表します。行動を責めるつもりなど毛頭ありません。ただ、なぜ実名で投稿する、若しくは直に申し出なかったのか、それが残念なのです。仮に、足がつきそうになかった場合には、ずっと頬っかむりしたわけでしょう。それはどう考えても「正義」の振る舞いではありませんね。

 昭和5年(1930)のロンドン軍縮条約。対米英の保有艦比率の低下に、「国防を全うすること能わず」として一人の海軍少佐が自刃しました。「諌死」ですね。僕自身には、そのような勇気はありませんし、今回の海保の人物にも同じようなことをすべきだったと言うつもりはありませんが、実名で投稿する、若しくはすぐに自首するということがなかったのが、僕は非常に残念に思うわけです。


 


 今日はこれまで。



2010年11月10日水曜日

ベルツの日記

12月1日


 日本人とは驚嘆すべき国民である!


こう日記に書いたのは、エルヴィン・フォン・ベルツ。草津温泉を世界中に知らしめたベルツ博士と言えば有名でしょう。


明治9年、来日して半年後の事です。11月29日夜半に日本橋から築地に至る一体が大火に見舞われ、1万戸以上が灰燼に帰してしまったことを聞いた翌日の事です。この感嘆符のあとに続く文章はこうです。


「今日午後、火災があってから36時間たつかたたぬに、はや現場では、せいぜい板小屋と称すべき程度のものであるが、千戸以上の家屋が、まるで地から生えたように立ち並んでいる。まだ残骸がいぶり、余燼もさめやらぬうちに日本人は、かれらの控えめな要求なら十分に満足させる新しい住居を魔法のような速さで組み立てるのだ。」


彼は来日する前に聞かされていた、いかなる悲運でも迎えることのできる日本人の「無頓着さ」というものを目のあたりにして、日記にそう書かしめるほど驚嘆せざるを得なかったのです。


「小屋がけをしたり、焼跡をかき探したりしていないものはといえば、例の如く一服をつける楽しみにふけっている。女や男や子供たちが三々五々小さい火を囲んですわり、タバコをふかしたりしゃべったりしている。かれらの顔には悲しみの跡形もない。」




 さて、ベルツ博士はドイツで生まれの内科医です。ある縁から日本政府に招かれて東京医学校(現東京大学医学部)の教授として来日するのです。その時若干27歳。僕は、温泉の効用を日本人に医学的にわかりやすく伝え、群馬県草津温泉の効能、その風景、人情の素晴らしさを世界に発信した彼は、相当な老人だったのだろうと勝手に想像していましたが、豈はからんや・・・。27歳で来日し、その後約30年に渡って日本に暮した人物でした。


彼は、来日5年後の明治14年に日本人女性ハナと結婚し、トク、ウタと名付けた子供をもうけます。ところが、ウタと名付けられた長女は、3歳のお祝いの節句を前に急死していまいます。


その深い悲しみを綴った彼の日記は悲痛です。


「明後日、わたしたちはかわいい子供を葬るのです。
思っただけでも、それはたまらないことです!どんなにあの子は、わたしを慕っていた事か。わたしが帰宅する時、馬車か人力車の響きを聞き、召使いが日本の風習で「だんなさまのお帰り」と叫びますと、あの子はどんな遊びをしていても、そのままにやめ、ちょうど手にしたていたものが何であろうと、すべてをほうり投げ、ちょこちょこと小さな足で大急ぎに急ぎ、両手を拡げてわたしの方へかけよって、わたしの脚に擦りつけるのでした。高く挙げてやると、あの子は特有の笑い声をあげるのですが、その声は今でもなお、耳に残っており、わたしにとっては何よりも甘美な音楽でした。
 
もう過ぎ去った、過ぎ去ったことです!」








 ベルツは、壮年期のほぼすべてを日本で過ごし、明治38年にドイツへ帰国します。それは、ほんのこどもであったこの国がたくましく成長していく過程と同時期でした。


彼は大正2年(1913)、シュトゥットガルトで64年の生涯を閉じます。死ぬ間際、彼は江戸の残映を色濃く残し、英国人写真家H.G.ポンティングが「この世の楽園」と呼んだ「日本」の全てを想起したに違いありません。


 今日はこれまで。

2010年11月9日火曜日

人間という「種」への少しの期待

「戦争における人殺しの心理学」


何とも物騒なタイトルですが、これはいずれ講師として皆さんにご紹介したいと思ってた本です。そういえば、そろそろ忘年会の企画をしないといけませんな。


アマゾンのレビューを見てもかなりの高評価でした。この著者はアメリカ陸軍に23年間勤務し、その間ウエストポイント陸軍士官学校心理学・軍事社会学教授、アーカンソー州立大学軍事学教授でもあったデーヴ・グロスマンなる人です。




さて、「PTSD」という言葉をご存じだと思いますが、これは日本語に訳すと心的外傷後ストレス障害となるのだそうですが、アメリカではイラク戦争から帰還した兵士たちに多く見られた症状だそうです。さもありなんとは容易に想像できますね。戦場を経験する人間の最大のストレスは「自らが傷つき、死ぬことへの恐怖」というのがその想像の大元だと思うのですが、これは実は全く違うのです! 


「第二次大戦中、米陸軍准将S.L.Aマーシャルは、いわゆる平均的な兵士たちの戦闘中の行動について質問した。その結果、まったく予想もしなかった意外な事実が判明した。敵との遭遇戦に際して、火戦に並ぶ兵士100人のうち、平均してわずか15人から20人しか『自分の武器を使っていなかった』のである。しかもその割合は『戦闘が1日じゅう続こうが、2日3日続こうが』つねに一定だった。」


「第二次大戦中の戦闘では、アメリカのライフル銃兵はわずか15~20%しか敵に向かって発砲していない。発砲しようとしない兵士たちは、逃げも隠れもしていない(多くの場合、戦友を救出する、武器弾薬を運ぶ、伝令を務めるといった、発砲するより危険の大きい仕事を進んで行っている)。ただ、敵に向かって発砲しようとしないだけなのだ。日本軍の捨て身の集団突撃にくりかえし直面したときでさえ、かれらはやはり発砲しなかった。」


なのだそうです。俄かには信じがたいような内容ですが、これを著者は次のように結論付けます。


「ほとんどの人間の内部には、同類たる人間を殺すことに強烈な抵抗感が存在する」


この結論に対して、様々な調査結果から裏付けようとしているのが、本書の大まかな内容です。
よく考えてみると、なるほどそうなのかも知れないと思うようになります。また、この抵抗感は敵との距離により大きな差がでてきます。例えば空から爆弾を落とす空軍のパイロットや、数十キロ先の相手と撃ち合う艦艇の乗り組員は、この抵抗感を感じないものだといいます。殺す相手の顔が見えないからです。最も近いのがライフルマン、つまりは一般の兵士であるわけです。

第二次大戦中のアメリカのパイロットが撃墜した敵機のうち、その40~50%が僅か1%のパイロットによって挙げられた戦果だという驚くべき結果もあります。相手パイロットの顔が見えるくらいでないと撃墜できないのが当時の空戦ですが、そうなると大きな抵抗が働くらしいのです。ですから、ほとんどのパイロットは、敵機を撃墜しようとはしていないのだそうです。ごく少数(1%)を除いては。

狙撃兵、これはスコープの先で撃つ敵を確認しながら引き金を引くわけですが、それに耐えられるのは全体の2%程度しかいない、先天的に攻撃性の強い人間だと・・・。

エースと呼ばれるパイロットも、狙撃兵もおおかたの人間では務まるものではないらしい。


例えばこんなことも述べられてます。

「イスラエルの軍事心理学者ベン・シャリットは、戦闘を経験した直後のイスラエル軍兵士を対象に、何がいちばん恐ろしかったかを質問した。予想していたのは「死ぬこと」あるいは「負傷して戦場を離れること」という答えだった。ところが驚いたことに、身体的な苦痛や死への恐怖はさほどではなくて、「ほかの人間を死なせること」という答えの比重が高かったのである。
 シャリットは、戦闘体験のないスウェーデンの平和維持軍についても同様の調査を行った。このときには、「戦闘でもっとも恐ろしいこと」として、予想通り『死と負傷』という答えが得られた。そこで、戦闘体験は死や負傷への恐怖を減少させる、とシャリットは結論している。」

これから読み取れることは、

「死や負傷の恐怖は戦場の精神被害のおもな原因ではないということだ。事実、これはシャリットも指摘していることだが、社会的文化的通念では、兵士はわが身かわいさから死や負傷をなにより恐れると思われているが、戦場の兵士の心に重くのしかかっているのは、戦闘にまつわる恐ろしい義務を果たせないのではという恐怖なのである。」


であるとしています。

どうですか。「人間」という種にある種の期待、希望を見出せませんか。

ところが、最近ではそれをどう克服するかという手法が確立され、そのための訓練方法を行っているため、冒頭で述べた非常に少ない発砲率というのはないらしいです(もちろん、国によります)。朝鮮戦争時には55%にまで高まり、ベトナム戦争時でのそれは90~95%にまで高まっているらしいです。訓練次第ではやはり人間は「人を殺す」ことへの抵抗を薄めさせることができるようで、複雑な感想を残します。


国連の平和維持活動を担う兵士はベレー帽をかぶってます。これは、ヘルメットをかぶる兵士を撃つ抵抗が少なく、ヘルメットをかぶっていない兵士を撃つことへの抵抗が大きいからだそうです。頭を守るヘルメットがあるかどうかで発砲率が異なるのです。だから、平和維持軍はベレー帽をかぶっているのだそうです。この方が生きのびる役に立つと・・・。

興味があれば一読を。

今日はこれまで。

2010年11月8日月曜日

秋の空 その2

 最近は、どうも「四季」というものがその様変わりをさぼっているようですね。


特に今年などは猛暑が終ってすぐに冬がきたような気がします。昨日は「立冬」でした。


僕は四季の中で「秋」が一番好きなんです。若い頃から、「夏」が終わると1年が終わったような気がして、その物悲しさを、色づき始める木々の緑と、つるべ落としのような夕日の残映が、一層それを飾るような気がするのです。


わが家から大きな柿の木が見えます。


今は、たわわに実をゆらすその枝が見事です。ちょうど西の方角にありますので、夕焼けの中で浮かぶその姿は何ともたとえようがありません。


「柿食えば鐘がなるなり法隆寺」


有名な正岡子規の歌ですが、細かいことは知りません。ただ、僕はこれは夕方の情景であると確信してます。もしかしたら違うかも知れませんが、真実がどうかは問題ではないのです。この歌は僕の心にある「秋」という心象、そのものだからです。


「解釈に動じないものこそ美しい」


小林秀雄の言葉です。その意味の一端は、存外こんなところにあると思っています。


今日はこれまで。



2010年11月7日日曜日

日本事物詩 B.H.チェンバレン

  日本事物詩は、日本語という言語の研究者でもあったB.H.チェンバレンという英国人が著した本です。彼はイギリスはポーツマスの生れであり、偶然にも僕が住んでいた町です。住んでいた当時は彼の存在を知りませんでした。もし、知っていたらと思うと残念でなりません。


 彼は十数カ国語に通じていて、その中でフランス語、ドイツ語、日本語は母国語同様に操れました。彼に日本語を教えたのは、まだ両刀をたばさんだ古武士然とした老人で、古典が教科書だったと言います。間違いなくいえるのはチェンバレンは、現代の僕らよりも日本語の語彙が豊富なだけでなく、多くの古典にも通じていたということです。
彼の話す日本語は美しい大和言葉で、彼の愛弟子であった佐々木信綱は師であるチェンバレンから、次のように言われました。


「日本にはよい本が多くあり、またよい人が多くあります。よい本をよく見て、よい人の魂に触れるということはよいことであります。あの万葉集の、よき人のよしとよく見てよしと言いしという歌のようです。」


 彼は明治6年、23歳の時に来日して61歳になるまでの約40年間のほとんどを日本で過ごしました。その間、来日4年後の明治10年には「枕詞および言いかけ考」、13年には「日本古代の詩歌」、16年には「英訳古事記」などを次々と著します。彼は、最初海軍兵学寮(海軍兵学校の前進)の教師となり、ついで東京帝国大学にも招かれて、教鞭をとるようになります。


 この「日本事物詩」の初版は明治23年です。それまでの彼の見聞きし、研究した日本のあらゆる風物から、宗教、政治、詩歌、茶道など・・・非常に幅広いジャンルが扱われています。今では見る影もなくなってしまった当時の日本の姿、多くの外国人を魅了してやまなかった多くの日本の「事物」が書かれています。




 僕の読んだ本(ワイド版東洋文庫131「日本事物詩」平凡社)は明治39年(1905)の第5版でした。チェンバレンはその序論を次のように書き出します。


「現代日本の過度期を過してきた者は、不思議なほど年をとったという気持ちを感ずる。」


明治39年といえば、日露戦争で日本がロシアを破った年です。ほんのよちよち歩きだったこの国が、ロシアという大国を負かすほどになるとは、思いもしなかった事でしょう。


「この筆者を初めて日本語の神秘の世界へ手引きしてくれた信愛なる老武士は、丁髷と両刀をつけていた。この封建時代の遺物は、今はニルヴァナ(涅槃)の世界に眠っている。」


「古いものは一晩のうちに過ぎ去ってしまう。日本人はヨーロッパが15世紀も20世紀もかけて成し遂げたものを、30年か40年で成し遂げたと自慢する。或る者はさらに進んで、西洋人は競争に遅れたと、われわれを嘲る者もいる。」




 チェンバレンは急速に変貌を遂げつつあった日本をどのように見ていたのでしょうか。「開国」という運命の荒波に翻弄されながらも、必死にそれにのまれまいとして抗い、そのお手本となった西欧に何としても追い付きたいとする子どものように写っていたのではないでしょうか。そうして、日本がその追いつく過程の中で捨てなくてもよいものまでも迷うことなく捨ててしまったことに対して、西欧人としてのある種の懺悔とあきらめを感じていたと思います。と同時に成長期の青年特有の危なっかしさを見ていたように思います。




「封建制度は去った。鎖国は去った。信仰も崩壊し、新しい偶像が打ち建てられ、新しく緊急に必要とするものが出てきた。騎士道の代りに産業主義があり、日本人の貴族的美術鑑定家の少数の集団の代りに、巨大な外国の大衆という大いに無知な人びとの要求を満足させなければならない。すべての原因は変ってきた。それなのに、以前と同じ効果をあげようと期待しているのである。」


これなどは、彼自身が自らに言い聞かせているように思えます。


「いや、古い日本は死んだのである。亡骸を処理する方法はただ一つ、それを埋葬することである。そして、その上に記念碑を建てることができよう。よかったら、ときどきやってきて墓に詣でるがよい。それがまったく「日本式」というものである。このささやかなる本は、いわば、その墓碑銘たらんとするもので、亡くなった人の多くの非凡な美徳のみならず、また彼の弱点をも記録するものである。」




 チェンバレンは「古い日本は死んでしまった」と繰り返し書いています。その「墓碑銘」としてこの本があるのだと。この本で説明される日本の「事物」は今でも残るものも多くあります。例えば「花見」の習慣とか、どの花を愛で、どの花を愛でないかは、彼の観察したとおりで今も変わっていません。


 「逝きし世の面影」に書いてあったのですが、今でも残る昔からの習俗、習慣は多いが、それはいわざ寄木細工のひとつひとつのパーツみたいなもので、パーツがいくらあろうとそれを組み立てない限りはひとつの形にはならない。しかも、組み立てる術をもはやこの国はもたないと。チェンバレンもそのように感じていたのだと思います。そしてそれが、明治の終りに彼をしてそう書かしめたほどの変貌があったということが、僕には非常に驚きなのです。


 今日はこれまで。