数年前の出来事です。
地下鉄車内の中で、両手にたくさんの漫画本の詰まった紙袋を提げた老人を見かけました。割とこぎれいにしているホームレス風な装いといったところでしょうか。僕は、なぜだかその老人に目が釘付けでした。空いている車両の中、その人は周囲の目線を気にするでもく腰かけると、おもむろに自分のカバンからワンカップを取り出しました。
そうしてその蓋を開けると、その蓋の裏側をいとおしそうに舐め、揺れる車内の中、一滴もこぼしてなるものかといったふうに大事そうに両手でカップをもちながら、呑みはじめたのです。それは、見ている僕にまでその旨さが伝わって来るような飲み方でした。
あれだけ、酒を旨そうに大事そうに飲む人を見たのは初めてのこと、そしてそれからもお目にかかったことはありません。
毎日ただひたすらに飲んだくれていた当時の僕と、その老人と一体どちらかが幸せだったのだろうかと考えてしまいます。
今日はこれまで。
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2010年12月21日火曜日
2010年12月20日月曜日
時間が足りない・・・
「知らねばならぬことが余りにも多すぎる」
これが僕の今の思い、焦燥感です。読書は思索することによって自分の血となり肉となります。これはショーペンハウエルが言っていますね。思索しなければ読書は単なる時間の浪費でしかありません。その両者のバランスをどうとるか、それが僕の問題なのです。
読まねばならぬ本は多く、思索する時間も必要であり、それにまつわる焦燥感はどうしたら解消することができるのか・・・。
原稿書きに没頭し、その反動で活字に食傷し、そのまた反動で活字におぼれたのがこの1年でした。うまく説明はできませんが、今まで蓄えられた断片的な知識という積み木が、ようやく積み重ねられてある形を作り始めているような、そんな心持ちがしています。
とはいえ所詮それは単なる知識であり、心の奥底のもやもやしたものを決して解消してはくれません。
「いかにかすべき我がこころ」
小林秀雄によれば、西行の歌の根底にはこれが流れているとのこと。
僕にとって、それは心中の呻吟の元ともなっています。
今日はこれまで。
これが僕の今の思い、焦燥感です。読書は思索することによって自分の血となり肉となります。これはショーペンハウエルが言っていますね。思索しなければ読書は単なる時間の浪費でしかありません。その両者のバランスをどうとるか、それが僕の問題なのです。
読まねばならぬ本は多く、思索する時間も必要であり、それにまつわる焦燥感はどうしたら解消することができるのか・・・。
原稿書きに没頭し、その反動で活字に食傷し、そのまた反動で活字におぼれたのがこの1年でした。うまく説明はできませんが、今まで蓄えられた断片的な知識という積み木が、ようやく積み重ねられてある形を作り始めているような、そんな心持ちがしています。
とはいえ所詮それは単なる知識であり、心の奥底のもやもやしたものを決して解消してはくれません。
「いかにかすべき我がこころ」
小林秀雄によれば、西行の歌の根底にはこれが流れているとのこと。
僕にとって、それは心中の呻吟の元ともなっています。
今日はこれまで。
2010年12月19日日曜日
Know your enemy 汝の敵を知れ
大東亜戦争中によく使われた言葉に「鬼畜米英」というものがあります。これは皆さんもよく御存じかと思います。米英は「鬼畜」だというのですから、なんとも酷い言葉使いですね。幕末の「攘夷」と変わりありません。その言葉の出て来た背景は知りませんが、大方新聞が使いだしたのでしょう。その言葉使いには、いかに時代が違うとはいえ何とも心淋しくなるような、そんな思いがします。
資源を求めて南方に出ていかざるを得なかった日本の国策ですが、そこには当然「占領行政」が必要となります。そこで必須となる「言語」つまり英語に対しては、日本は非常に冷淡というか、淡泊というか、無視するような態度でした。
「敵の言葉を覚えるより、占領した住民に日本語を教えるくらいの気概がなくてどうする!」
といった、精神論でその先の議論が止められてしまうような状況でした。これ、前にも書きましたね。こういった何の中身もない精神論は今でもこの国で通用しそうだと・・・。
さて、対するアメリカは言葉も、文化も、何もかも自分たちと完全に異なる「日本人」を敵とする事態になって、「日本」及び「日本人」というものを徹底的に研究するようになります。その標語が冒頭に挙げた
「Know your enemy」
だったわけです。当時の日本では通用しなかった正論ですね。アメリカはその言葉通りに、徹底的に敵国日本の研究をやりだすわけです。
荒唐無稽すぎて想像するに困難かも知れませんが、突然地球に宇宙人が攻めて来たとしましょう。相手は宇宙人ですから、言葉も理解できず、どんな戦い方をするかもさっぱりわからない。そんな事態となっても戦わざるを得ないとしたら、僕らはその宇宙人を「不気味な敵」と名付けるでしょう。
ちょうど、当時のアメリカはそんな事態に直面したと思います。
「不気味な敵=日本」
日米開戦前、アメリカに日本語のできる将兵はほとんどおらず、日本を研究分析しようにもそれができない状態でした。そこで開戦の僅か2ヶ月前の事ですが、「語学将兵」の養成に着手します。例えば海軍では、全米から日本生まれのアメリカ人(宣教師の子弟)や、大学で日本語を学ぶ学生などを集めて、「海軍日本語学校」を設立します。そこでは一層の語学将兵を養成するため、全米の最も成績優秀な大学生、及びその卒業生で組織されるクラブで学生の募集をかけ、アメリカにおける最も優秀な頭脳を集めて、僅か12か月間で当時世界で最も難しい言語と言われていた日本語を習得させようとするのです。
この執念というか、徹底ぶりには目を見張るばかりですが、そこでの教育は教育というよりは特訓だったようです。1日僅か4時間の授業でしたが、1時間の授業を受けるには最低3時間の予習復習が強制されたため、学生は1日中机に向かわなければならず、全米で最優秀の頭脳を集めたにもかかわらず、精神に異常をきたしてしまう学生が少なからずいたとのこと。
そんな過酷な特訓を受けた海軍日本語学校学生の中に著名なドナルド・キーンがいます。彼はそこの最初の卒業生です。また、陸軍でも独自に日本語学校を設立しており、それはオーストラリアにありました。
その急造されたその語学将兵たちが最初に赴任した地は、日米で初めて地上戦が行われた「ガダルナカル島」でした。彼らはそこで、残された日本兵の日記を分析するよう命じられるのです。
「ジャングルで食べ物もなかった人たちの日記は悲しかった。その日記を書いた人たちが、みな死んでしまっていることを考えると、もっと悲しかった」
語学将兵たちは、戦場に残された多くの日記を読み進めるにしたがって、「不気味な敵」であった日本人が、その実彼ら自身とほとんど変わらない人間であることを知るようになるのです。
戦後の占領行政において、彼らが翻訳し、分析研究した資料が役立ったことは言うまでもありません。
名もない兵士の日常が書きつづられた多くの日記は、今もワシントンの国立公文書館に眠っています。
8月11日 今日も友軍が来て呉れない。今の我れらは友軍を待って居るが友軍から何の頼りもない。今日は五日目である。僕らも大分身体がつかれて来た。早ク友軍が来て呉れないと、生命があぶない。もう二三日の内に来て呉れないと我れら生命はない。高橋君も大分まいって居様である。今日五日何もたべていない。僕はも(う)妻の町子の顔を見る事は出来ないかも知れない。ガドルかなる島のジャングルの中で三十五才の生命も終りとなるか。早ク友軍来て呉れ、たすけの神を今は神に念じて待って居るばかりである。今日で五日五夜、ジャングルを逃げまわる。
8月12日 今日は十二日、敵に追れてから今日は六日目である。朝早クから今日は川下に下って来た。早ク友軍来たれ。我れらの生命も一日一日に良は(弱)って来る。食事は六日もして居ない。早ク今はも(う)仁記(日記)をかく元気もなくなった。
今日で十日になるが友軍来たらず。毎日木の身、草の根をかじって今日までしのんで来た。後十日も友軍来なければ、我れらは上死(飢え死)にする。
氏名不詳の軍属の日記から。
今日はこれまで。
資源を求めて南方に出ていかざるを得なかった日本の国策ですが、そこには当然「占領行政」が必要となります。そこで必須となる「言語」つまり英語に対しては、日本は非常に冷淡というか、淡泊というか、無視するような態度でした。
「敵の言葉を覚えるより、占領した住民に日本語を教えるくらいの気概がなくてどうする!」
といった、精神論でその先の議論が止められてしまうような状況でした。これ、前にも書きましたね。こういった何の中身もない精神論は今でもこの国で通用しそうだと・・・。
さて、対するアメリカは言葉も、文化も、何もかも自分たちと完全に異なる「日本人」を敵とする事態になって、「日本」及び「日本人」というものを徹底的に研究するようになります。その標語が冒頭に挙げた
「Know your enemy」
だったわけです。当時の日本では通用しなかった正論ですね。アメリカはその言葉通りに、徹底的に敵国日本の研究をやりだすわけです。
荒唐無稽すぎて想像するに困難かも知れませんが、突然地球に宇宙人が攻めて来たとしましょう。相手は宇宙人ですから、言葉も理解できず、どんな戦い方をするかもさっぱりわからない。そんな事態となっても戦わざるを得ないとしたら、僕らはその宇宙人を「不気味な敵」と名付けるでしょう。
ちょうど、当時のアメリカはそんな事態に直面したと思います。
「不気味な敵=日本」
日米開戦前、アメリカに日本語のできる将兵はほとんどおらず、日本を研究分析しようにもそれができない状態でした。そこで開戦の僅か2ヶ月前の事ですが、「語学将兵」の養成に着手します。例えば海軍では、全米から日本生まれのアメリカ人(宣教師の子弟)や、大学で日本語を学ぶ学生などを集めて、「海軍日本語学校」を設立します。そこでは一層の語学将兵を養成するため、全米の最も成績優秀な大学生、及びその卒業生で組織されるクラブで学生の募集をかけ、アメリカにおける最も優秀な頭脳を集めて、僅か12か月間で当時世界で最も難しい言語と言われていた日本語を習得させようとするのです。
この執念というか、徹底ぶりには目を見張るばかりですが、そこでの教育は教育というよりは特訓だったようです。1日僅か4時間の授業でしたが、1時間の授業を受けるには最低3時間の予習復習が強制されたため、学生は1日中机に向かわなければならず、全米で最優秀の頭脳を集めたにもかかわらず、精神に異常をきたしてしまう学生が少なからずいたとのこと。
そんな過酷な特訓を受けた海軍日本語学校学生の中に著名なドナルド・キーンがいます。彼はそこの最初の卒業生です。また、陸軍でも独自に日本語学校を設立しており、それはオーストラリアにありました。
その急造されたその語学将兵たちが最初に赴任した地は、日米で初めて地上戦が行われた「ガダルナカル島」でした。彼らはそこで、残された日本兵の日記を分析するよう命じられるのです。
「ジャングルで食べ物もなかった人たちの日記は悲しかった。その日記を書いた人たちが、みな死んでしまっていることを考えると、もっと悲しかった」
語学将兵たちは、戦場に残された多くの日記を読み進めるにしたがって、「不気味な敵」であった日本人が、その実彼ら自身とほとんど変わらない人間であることを知るようになるのです。
戦後の占領行政において、彼らが翻訳し、分析研究した資料が役立ったことは言うまでもありません。
名もない兵士の日常が書きつづられた多くの日記は、今もワシントンの国立公文書館に眠っています。
8月11日 今日も友軍が来て呉れない。今の我れらは友軍を待って居るが友軍から何の頼りもない。今日は五日目である。僕らも大分身体がつかれて来た。早ク友軍が来て呉れないと、生命があぶない。もう二三日の内に来て呉れないと我れら生命はない。高橋君も大分まいって居様である。今日五日何もたべていない。僕はも(う)妻の町子の顔を見る事は出来ないかも知れない。ガドルかなる島のジャングルの中で三十五才の生命も終りとなるか。早ク友軍来て呉れ、たすけの神を今は神に念じて待って居るばかりである。今日で五日五夜、ジャングルを逃げまわる。
8月12日 今日は十二日、敵に追れてから今日は六日目である。朝早クから今日は川下に下って来た。早ク友軍来たれ。我れらの生命も一日一日に良は(弱)って来る。食事は六日もして居ない。早ク今はも(う)仁記(日記)をかく元気もなくなった。
今日で十日になるが友軍来たらず。毎日木の身、草の根をかじって今日までしのんで来た。後十日も友軍来なければ、我れらは上死(飢え死)にする。
氏名不詳の軍属の日記から。
出所:「戦場に残された日記」 勝見 明
今日はこれまで。
2010年12月18日土曜日
小中学生体力テストから 「またも負けたか8連隊」
小学5年生と中学2年生の男女、全国で40万人あまりの調査によると、それら児童の体力の低下に歯止めがかからず、上位の県、下位の県が固定化してきているらしいです。16日のNHKのニュースです。上位には福井県、下位には大阪府が名を連ねていました。確か大阪は学力テストでも最下位に近いんですよね。橋本知事が声を荒げて言ってたのをテレビで見たことがあります。
食卓で父親とそのニュースを見ていて、彼が言うのが
「またも負けたか8連隊」
という俗謡。大阪出身の兵で占められている歩兵第8連隊を馬鹿にした言葉です。父親曰く、「それも大阪の伝統だ」つまり、今の子供らの体力が劣等なのも大日本帝国時代の8連隊から続く伝統だと・・・。この俗謡、大阪出身の司馬遼太郎も本の中で触れていたように思います。司馬も大阪兵の弱さを自嘲気味に語っていました。
ちょっと気になってネットで調べてみると、どうここれは事実ではないらしい。決して弱かったわけでなく、ましてや負け戦ばかり続けていたわけではないとのこと。俗に言われることは全く根も葉もないことのようです。しかし、なぜこのようなことが言われ出したのかは全くの謎らしい。歩兵8連隊史には、そのような俗謡をあるをしり、将兵一丸となってそれを払拭しようと猛訓練を実施したと書いてあり、事実大東亜戦争初頭のコレヒドール攻略戦でも立派な戦績を残している。
しかるになぜこんな俗謡が流行ったのか実に不思議です。
今日はこれまで。
食卓で父親とそのニュースを見ていて、彼が言うのが
「またも負けたか8連隊」
という俗謡。大阪出身の兵で占められている歩兵第8連隊を馬鹿にした言葉です。父親曰く、「それも大阪の伝統だ」つまり、今の子供らの体力が劣等なのも大日本帝国時代の8連隊から続く伝統だと・・・。この俗謡、大阪出身の司馬遼太郎も本の中で触れていたように思います。司馬も大阪兵の弱さを自嘲気味に語っていました。
ちょっと気になってネットで調べてみると、どうここれは事実ではないらしい。決して弱かったわけでなく、ましてや負け戦ばかり続けていたわけではないとのこと。俗に言われることは全く根も葉もないことのようです。しかし、なぜこのようなことが言われ出したのかは全くの謎らしい。歩兵8連隊史には、そのような俗謡をあるをしり、将兵一丸となってそれを払拭しようと猛訓練を実施したと書いてあり、事実大東亜戦争初頭のコレヒドール攻略戦でも立派な戦績を残している。
しかるになぜこんな俗謡が流行ったのか実に不思議です。
今日はこれまで。
2010年12月17日金曜日
一兵卒
小沢一郎はよほどこの「一兵卒」なる言葉が好きと見えます。
しかしながら、上官の言う事を聞かない一兵卒など本来存在できるはずもない。自らの党の幹事長が会いたいといっても簡単に会えない一兵卒の議員などあり得るのか。不遜、尊大極まりない人間ですね。
司法の場で明らかになることだからといって政倫審への出席を拒み、なおかつそれを支持する民主党議員がいるとか。僕には理解不能です。民主党議員は口さえ開けば「国民目線」と言っていたはずです。今その「国民」が「小沢一郎の国会での証言」を望んでいるわけでしょう・・・。小沢一郎を支持する議員は、もう二度と「国民目線」などという言葉を使う事は謹んでもらいたい。
そして、だれか教え諭したらいいですよ。「責任」には法的なそれと、政治的なそれがあると。法的な責任は司法の場で明らかにすればいい。一方の政治的な責任、政治家としての公に明らかにすべき責任は、国会の場で説明するしかないことを。
なんでも小沢一郎は自分が槍玉にあげられるのもマスコミのせいだと言っているらしいですが、そのマスコミの力によって民主党は政権を獲得できたのですよ・・・。天に唾を吐くとはこのことですね。
学級委員みたいな総理大臣と、かつての思想を捨てきれない赤い官房長官と、言う事を聞かない一兵卒と、引退すると言いながら、舌の根が乾かぬうちにそれを撤回する元総理大臣・・・。
民主党は戦後のこの国の膿が集ったような集団ですね。
今日はこれまで。
しかしながら、上官の言う事を聞かない一兵卒など本来存在できるはずもない。自らの党の幹事長が会いたいといっても簡単に会えない一兵卒の議員などあり得るのか。不遜、尊大極まりない人間ですね。
司法の場で明らかになることだからといって政倫審への出席を拒み、なおかつそれを支持する民主党議員がいるとか。僕には理解不能です。民主党議員は口さえ開けば「国民目線」と言っていたはずです。今その「国民」が「小沢一郎の国会での証言」を望んでいるわけでしょう・・・。小沢一郎を支持する議員は、もう二度と「国民目線」などという言葉を使う事は謹んでもらいたい。
そして、だれか教え諭したらいいですよ。「責任」には法的なそれと、政治的なそれがあると。法的な責任は司法の場で明らかにすればいい。一方の政治的な責任、政治家としての公に明らかにすべき責任は、国会の場で説明するしかないことを。
なんでも小沢一郎は自分が槍玉にあげられるのもマスコミのせいだと言っているらしいですが、そのマスコミの力によって民主党は政権を獲得できたのですよ・・・。天に唾を吐くとはこのことですね。
学級委員みたいな総理大臣と、かつての思想を捨てきれない赤い官房長官と、言う事を聞かない一兵卒と、引退すると言いながら、舌の根が乾かぬうちにそれを撤回する元総理大臣・・・。
民主党は戦後のこの国の膿が集ったような集団ですね。
今日はこれまで。
2010年12月16日木曜日
僕の習慣
今日は本当にどうでもいいことを書きます。お付き合いください。
僕の習慣、3つばかりについてです。
その1
「10年日記」

1993年1月1日からつけ始めて、今は2冊目です。左の画像だと見にくいですが、日付をベースに10年並んでいる形です。書きこむスペースは狭いので、毎日大量に書きたい人には不向きですが、僕はその日の天気、帰宅時間を必須として、他に世のニュースだとか、その日の自分の話題だとか、そんなことを書いています。
同じ日付で辿ることができるので、「何年前の同日は何をやっていたのか」そんなことがすぐにわかります・・・。
その2
「買った本に日付を書くこと」
これも、効果としては10年日記と同じかも知れません。ある本を買ったら、必ずその末尾に買った年と日付をいれるのです。読み返した時、「これはいつ買った本」かどうかがわかると、当時の年齢もわかり、当時の読書傾向やら、その頃を簡単に簡単に思いだすことができます。
ちなみに今読み返しているのが「『やまとだましい』の文化史」という本で、1983年10月28日と記されています。27年前に買った本です。今読むと文章の多くに違和感を感じます。著者が「左翼」だからです。当時はどう感じたのか、あまり覚えていません。
その3
「買った本の記録をつけること」
これは、ノートに年ごとに買った本の題名、著者、買った日、読みはじめた日、読み終わった日を書いているものです。1992年の11月から始めています。10年程まえにかなり本は処分したので、今ではそこに記録が残るだけのものも多いかな。
その年によって買う本の量はまちまちですが、1年間にどれだけの本を買ったのかがわかるだけのもの・・・。何年かは金額まで入れて、1年間でどれだけの使ったのか検証してました。途中でやめました。
ちなみに1996年には1年間で112冊の本を買っていました。これが最高で、最低は2005年の15冊。2005年は買いたい本がなく、家にある本を読み返していた記憶が残っています。
今は本をこれ以上増やしたくないので、「必ず二度以上読む」と感じられる本以外は買わないことにしています。
たかだか僕の習慣なので、みなさんからみればどうでもいいことだとは思います。
でも、もし「なるほど」と共感したら、やってみてください。
今日はこれまで。
僕の習慣、3つばかりについてです。
その1
「10年日記」

1993年1月1日からつけ始めて、今は2冊目です。左の画像だと見にくいですが、日付をベースに10年並んでいる形です。書きこむスペースは狭いので、毎日大量に書きたい人には不向きですが、僕はその日の天気、帰宅時間を必須として、他に世のニュースだとか、その日の自分の話題だとか、そんなことを書いています。
同じ日付で辿ることができるので、「何年前の同日は何をやっていたのか」そんなことがすぐにわかります・・・。
その2
「買った本に日付を書くこと」
これも、効果としては10年日記と同じかも知れません。ある本を買ったら、必ずその末尾に買った年と日付をいれるのです。読み返した時、「これはいつ買った本」かどうかがわかると、当時の年齢もわかり、当時の読書傾向やら、その頃を簡単に簡単に思いだすことができます。
ちなみに今読み返しているのが「『やまとだましい』の文化史」という本で、1983年10月28日と記されています。27年前に買った本です。今読むと文章の多くに違和感を感じます。著者が「左翼」だからです。当時はどう感じたのか、あまり覚えていません。
その3
「買った本の記録をつけること」
これは、ノートに年ごとに買った本の題名、著者、買った日、読みはじめた日、読み終わった日を書いているものです。1992年の11月から始めています。10年程まえにかなり本は処分したので、今ではそこに記録が残るだけのものも多いかな。
その年によって買う本の量はまちまちですが、1年間にどれだけの本を買ったのかがわかるだけのもの・・・。何年かは金額まで入れて、1年間でどれだけの使ったのか検証してました。途中でやめました。
ちなみに1996年には1年間で112冊の本を買っていました。これが最高で、最低は2005年の15冊。2005年は買いたい本がなく、家にある本を読み返していた記憶が残っています。
今は本をこれ以上増やしたくないので、「必ず二度以上読む」と感じられる本以外は買わないことにしています。
たかだか僕の習慣なので、みなさんからみればどうでもいいことだとは思います。
でも、もし「なるほど」と共感したら、やってみてください。
今日はこれまで。
2010年12月15日水曜日
僕の原体験 再び226
先日、縁あって御年70になる方とスカイプで1.5時間もお話をする機会がありました。
内容は、僕の原稿「226」についてです。その方は東大在学中丸山真男ゼミにいらしたということで、ご自身「僕は転向組だから」と仰ってました。
僕が言うのも不遜ではありますが、同事件について相当に研究している方で、多くの点を「突っ込まれ」ました。ただ、彼ら「青年将校」に共感を覚えるという点では一致してました。
青年将校は「やむにやまれぬ」思いであの挙を起こしたのです。「憂国の至情」と表現されますが、彼らのそれは、単なる観念ではなく日ごろ接する部下たちの現実の困窮でした。それが根底にありました。
僕の記憶です。
7歳で新潟から埼玉に引っ越してきた僕は、何度か母親い連れられて巣鴨のとげぬき地蔵へ行った記憶があります。手術をしても取り出せなかった右足に残るガラス片(今も残ります)が、その御利益によって出てくることを願ったのでしょう。
おそらく、その頃のことです。
街には白い浴衣のようなものをまとったけが人がいて、物乞いをしていました。その中には足のない人、手のない人もいました。戦争での傷病兵です。3~4人が一緒になって、中の一人はアコーディオンで哀しいメロディを奏でてました。幼い僕は何とも可哀想な気持ちになって、母親から少年ジャンプを買うために貰っていた100円をその人たちにあげたことがあります。母親はびっくりして「そんな事しなくていい」とか何とか言って僕を軽く叱りました。
「嘘だから」
というのです。確かに、今から思えば傷病兵の振りをしてお金を恵んでもらう人達だったのかもしれません。子どもにそんなことがわかろうはずもないので、僕はただ「可哀想」と自分のお金をあげたのです。
街の喧騒をよそに、その白い一群は確かに異様な光景でした。
僕がなぜ青年将校らに共感を覚えるのか。その理由の一端はおそらくこんな所にもあります。
安藤輝三は自らの給料をさいて、除隊したかつての部下に送っていました。そして、休日には就職の斡旋に奔走していました。彼の中にはまさしく観念ではない、現実の問題があったのです。
「兵たちを何としても救いたい」
この安藤は「神」のごとく部下に慕われていたことは以前紹介しました。
http://3and1-ryo.blogspot.com/2010/10/blog-post_10.html
さて、河合栄次郎といえば、東京帝国大学の経済学の教授、戦前の有名な自由主義者の一人。彼は、事件直後のコメントで、
一部少数のものが暴力で政権を左右しようというのはファシズムの運動だ。ファシズムの非なることは、・・・・・暴力を行使して社会に於ける多数同胞の意思を無視することに在る
と事件を批判します。真っ当な意見だと思います。然しながら事件から3か月後には、
現代日本の課題たる、国民生活の安定と国民思想の確立・・・・・此の課題は文人政治家が夙に解決すべき問題であった、然るに彼らが為すべくして為さず、躊躇荏苒として日を送れる間に、青年将校は一身の危険を賭して、これを解決せんとした。議会政治家と言論機関と学徒教育課は、何の面目を以て彼らに見えることができようか
内容は、僕の原稿「226」についてです。その方は東大在学中丸山真男ゼミにいらしたということで、ご自身「僕は転向組だから」と仰ってました。
僕が言うのも不遜ではありますが、同事件について相当に研究している方で、多くの点を「突っ込まれ」ました。ただ、彼ら「青年将校」に共感を覚えるという点では一致してました。
青年将校は「やむにやまれぬ」思いであの挙を起こしたのです。「憂国の至情」と表現されますが、彼らのそれは、単なる観念ではなく日ごろ接する部下たちの現実の困窮でした。それが根底にありました。
僕の記憶です。
7歳で新潟から埼玉に引っ越してきた僕は、何度か母親い連れられて巣鴨のとげぬき地蔵へ行った記憶があります。手術をしても取り出せなかった右足に残るガラス片(今も残ります)が、その御利益によって出てくることを願ったのでしょう。
おそらく、その頃のことです。
街には白い浴衣のようなものをまとったけが人がいて、物乞いをしていました。その中には足のない人、手のない人もいました。戦争での傷病兵です。3~4人が一緒になって、中の一人はアコーディオンで哀しいメロディを奏でてました。幼い僕は何とも可哀想な気持ちになって、母親から少年ジャンプを買うために貰っていた100円をその人たちにあげたことがあります。母親はびっくりして「そんな事しなくていい」とか何とか言って僕を軽く叱りました。
「嘘だから」
というのです。確かに、今から思えば傷病兵の振りをしてお金を恵んでもらう人達だったのかもしれません。子どもにそんなことがわかろうはずもないので、僕はただ「可哀想」と自分のお金をあげたのです。
街の喧騒をよそに、その白い一群は確かに異様な光景でした。
僕がなぜ青年将校らに共感を覚えるのか。その理由の一端はおそらくこんな所にもあります。
安藤輝三は自らの給料をさいて、除隊したかつての部下に送っていました。そして、休日には就職の斡旋に奔走していました。彼の中にはまさしく観念ではない、現実の問題があったのです。
「兵たちを何としても救いたい」
この安藤は「神」のごとく部下に慕われていたことは以前紹介しました。
http://3and1-ryo.blogspot.com/2010/10/blog-post_10.html
さて、河合栄次郎といえば、東京帝国大学の経済学の教授、戦前の有名な自由主義者の一人。彼は、事件直後のコメントで、
一部少数のものが暴力で政権を左右しようというのはファシズムの運動だ。ファシズムの非なることは、・・・・・暴力を行使して社会に於ける多数同胞の意思を無視することに在る
と事件を批判します。真っ当な意見だと思います。然しながら事件から3か月後には、
現代日本の課題たる、国民生活の安定と国民思想の確立・・・・・此の課題は文人政治家が夙に解決すべき問題であった、然るに彼らが為すべくして為さず、躊躇荏苒として日を送れる間に、青年将校は一身の危険を賭して、これを解決せんとした。議会政治家と言論機関と学徒教育課は、何の面目を以て彼らに見えることができようか
という文章を『中央公論』に著すことになるのです。
青年将校らも以て瞑すべしでしょう。
今日はこれまで。
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