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2010年11月6日土曜日

食糧安全保障

 タイトルの言葉、ご存知ですか?


環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)への参加を巡っての国内の議論の中で、その加盟反対派が必ず口にする言葉です。字面だけで、おおよその意味は推測出来るのですが、農水省によるとこういうことらしいです。


 食料は人間の生命の維持に欠くことができないものであるだけでなく、健康で充実した生活の基礎として重要なものです。したがって、国民に対して、食料の安定供給を確保することは、国の基本的な責務です。

 食料の多くを輸入に頼っている日本では、国内外の様々な要因によって食料供給の混乱が生じる可能性があり、食料の安定供給に対する国民の不安も高まっています。しかし、そういった予想できない事態が起こった際にも食料供給が影響を受けずに確保できるように準備しておかなくてはなりません。


 食料安全保障とは、このように予想できない要因によって食料の供給が影響を受けるような場合のために、食料供給を確保するための対策や、その機動的な発動のあり方を検討し、いざというときのために日ごろから準備をしておくことです。

 平成11年7月に公布・施行された「食料・農業・農村基本法」においては、不測時における食料安全保障に関する規定を設け、不測時において国が必要な施策を講ずることを明らかにしています。



出所:農水省HP

 そして、そのもとで平時における取組みとして以下のことを挙げています。

我が国の食料安全保障のためには、平時から食料の安定供給確保のための基本的な対策に取り組んでおくことが必要です。
 具体的には、輸入への依存をさらに高めていくことは、我が国の食料供給構造を不安定にするので、食料自給率の向上を目指して、国内の食料供給力の確保・向上を図ることが重要です。このことにより不測時における対応も行いやすくなります。
 また、消費者や実需者への安定的な供給を確保するため、食料安全保障上重要な農産物を適切に備蓄するとともに食料輸出国との安定的な貿易関係の形成などに努める必要があります。さらに、こうした取組とあわせ、国内外の食料需給に関する情報の収集・分析を行うことも必要です。
出所:農水省HP
 
 要するに、TPPを結ぶと日本の農業は壊滅的な被害を被り、平時から食料の安定供給確保のための基本的な対策」が取り得なくなるということを危惧していると考えられます。

 僕は、この問題に対して知見を持ちませんので、賛成とも反対とも言えません。双方の言い分に納得できることもありますし、できないこともあります。しかし、僕が奇妙に思えるのはその反対派の言うこの「食糧安全保障」というものです。

 多くの農産物を海外からの輸入に頼っている現状で、その輸入が途絶した場合のことを想定しての「食糧安全保障」ですが、それを声高に言い募る人々は、もちろん農水省の役人含めてですが、シーレーン防衛つまり海上通商路の安全保障に対しても積極的な物言いをしなければ筋が通らないのではないでしょうか?つまり、「海軍力を増強しろ」という声です。物事の順番から言って、まず広義の安全保障があり、次いで狭義の食糧安全保障であることは間違いありません。やや乱暴に言えば、命がなくなるかも知れないときに、食べ物の心配をしても仕方ないような気がするのです。僕のあてずっぽうな推量ですが、食糧安全保障を掲げて、自衛隊反対とか言う人結構いるんじゃないでしょうか?

 ちなみに、日本の農産物輸入の3割はアメリカからで、輸入国のほとんどは日本へ敵意を表わしてくるような国ではありません。唯一、中国のみが生鮮食料品輸入で5割近い輸入国になっているのみです。輸入総額は全農産物で5兆円、生鮮食料品の輸入総額は960億円にしか過ぎません。その中の5割ですから、中国との対生鮮食料品取引は微々たるものですね。多くの家庭もそうだと思いますが、わが家でも中国産の野菜は一切買いません。それに、中国からの野菜は国内で代替できるものばかりですから、あまり影響はないとは思います。
 自由化で安い農産物が入って来て日本の農家が大打撃を受けるというのが僕にはあまりピンと来ません。市場で勝負するのは価格だけではないからです。わが家で買う青森産のにんにくは1個で2~300円します。中国産は5個くらい入ったネットで100円です。青森産の高いにんにくは市場から駆逐されずに、高品質できちんと勝負できています(と思います)。

 いずれにしても、これは大局的な見地からの政治判断が必要になりますね。都市部選出の議員に賛成が多く、農村部選出の議員に反対が多いのかなと、容易に想像ができますが、それぞれの言い分を聞くだけでは判断に困ると思います。この問題で国民の100%の合意は得られないでしょう。

 ただ、ひとつ将来的に起こりえるかも知れないのは、各国の囲い込みが起こり一切の食糧輸出をストップするということです。これこそ食糧安保でしょう。もしくはバイオ燃料への転換という原因も考えられます。そうなった時に日本が慌てふためかないようにするためにはやはり国内農業を国策としてきちんと保護しておく必要があるのかなとも思います。

 前述したように僕には結論が出せません。

 今日はこれまで。

2010年11月5日金曜日

緊急

 今朝のニュースでびっくりしました!尖閣での漁船衝突ビデオがネットに流出したと!


海保は犯人探しに躍起になっているのでしょうが、流出させた人は国民の喝采を受けるのではないでしょうか。


映像は衝撃的ですね。明らかに日本の発砲はないと見越してぶつけて来てますから。よくもまぁ、ここまでなめられたものです。こういう確信犯には話し合いで等という防止策は一切無意味ですね。こちらは領海侵犯者への発砲を即座に認める以外再発防止策はないでしょう。大体それが普通の国の姿です。


 しかし、今の時代情報など隠しとおせるわけではないのに、限定公開などいう姑息なことをするからこういったことになると思います。「流出」などおそらく公開の方法として最悪ですね。国家の意思が全く見えてませんから。情けない・・・・。


 考えると憂鬱になるので、もうやめます。


 今日も空は澄み渡り、僕らの上に広がっています。

秋の空

 秋の、ちょうど今頃の空の色は何ともいえない素晴らしさがあります。昨日の空の青さを見たでしょうか?


4月にまーくんに請われて、彼の会社の新人社員に話をしました。


その中で僕は「徒然草」を題材とした話をしました。毎朝そらを見上げる習慣、毎夜星空を見上げる習慣をつけなさないと。これはあくせくと忙しく、かつ慌ただしく過ぎていく日常の中で心のゆとりを持つことが大切ですよと言いたいがためです。


吉田兼好の徒然草は、彼の理想とした生き方、理想とする心情に溢れています。


「花はさかりに月はくまなきものをみるものかは」


ここで言われているのは、花の盛りや欠けるとこのない月は、誰もが美しいと思う。そこには何の工夫もいらない。しかし、本当の美とは、生々流転する中にこそあるのであって、この例でいうならば、花は盛りじゃない時にそれを想像して「美」を感じるものであり、もしくは、やがて散るからこそ美しいと感じることこそ真の美意識だと。そして、そう感じる為には「教養」が必要であると。彼は、不完全なものを、想像力によって自らの心の中に完全な美として仕立て上げるには教養の力が必要だとしているのです。


 そう考える時、彼の言う「教養」なるものは、立ち止まる勇気でもあるような気がします。


 今日はこれまで。

2010年11月4日木曜日

日本奥地紀行 イザベラ・バード

 以前、外国人の目からみた幕末から明治初期の日本の記録、著者曰く「江戸の文明」の残映を「逝きし世の面影」というタイトルで著した渡辺京二の本をご紹介しました。


http://3and1-ryo.blogspot.com/2010/10/blog-post_19.html

それに触発されて、今は実際のその記録を読みあさっています。今日はその中でも有名な「日本奥地紀行」イザベラ・バードなる英国女性の旅行記の一端をご紹介します。


これは、彼女自身が次のように書いているものをまとめたものです。


「本書は、私が旅先から、私の妹や、私の親しい友人たちに宛てた手紙が主体となっているが、このような体裁をとるようにしたのは、いささか気の進まぬことであった。というのは、この形式で本を書くと、芸術的に体裁を整えたり、文学的に材料を取り扱うことが不可能となり、ある程度まで自己中心的な書きぶりとならざるをえないからである。しかし、一方では、読者も旅行者の立場に立つことができるし、旅の珍しさや楽しみはもちろんのこと、旅行中のいろいろの苦難や退屈まで、筆者とともに味わうことができるというものである。」




彼女は、明治11年(1878)6月から9月にかけての約3ヵ月間、日本で雇った通訳の男性一人を連れて東京から北海道までを旅行したですが、特に日光から北については、外国人として初めて訪問したことになります。北海道のでアイヌの暮らしぶりも記録され、貴重な資料にもなっています。


 彼女は、来日の目的を英国代理領事に告げるのですが、彼はその奥地旅行の計画を聞いて次のように言います。


「それはたいへん大きすぎる望みだが、英国婦人が一人旅をしても絶対に大丈夫だろう」
「日本旅行で大きな障害になるのは、蚤の大群と乗る馬の貧弱なことだ」


この2点は、英国代理領事だけでなく、他の全ての人も同じようなことを言ったとあります。


 何とも恐れ入るしかないような気がしますね。今も日本を訪れる外国人旅行者のほとんどが日本の「安全」を褒め称えますが、これも間違いなく「運ばれきしモノ」ですね。当時も今も、そんな事が許されるのは間違いなく「日本」一国でしょう(今はかなり怪しくなってきているとは思いますが)。


 彼女は、横浜で通訳兼ガイドを募集します。もちろん英語が話せることが必須条件でしたが、自薦、他薦とわず何人も応募があったようです。その中で「伊藤」という名の18歳の青年を雇うことになります。


 いくつも紹介したいエピソードがあるのですが、今日は一つだけご紹介します。


「私は日本の子どもたちがとても好きだ。私は今まで赤ん坊の泣くのを聞いたことがなく、子どもがうるさかったり、言うことをきかなかったりするのを見たことがない。日本では孝行が何ものにも優先する美徳である。何も文句を言わずに従うことが何世紀にもわたる習慣となっている。英国の母親たちが、子どもたちを脅したり、手練手管を使って騙したりして、いやいやながら服従させるような光景は、日本では見られない。私は、子どもたちが自分たちだけで面白く遊べるように、うまく仕込まれていることに感心する。」


「私はいつもお菓子を持っていて、それを子どもたちに与える。しかし彼らは、まず父母の許しを得てからでないと、受け取るものは一人もいない。許しを得ると、彼らはにっこりして頭を深く下げ、自分で食べる前に、そこにいる他の子どもたちに菓子を手渡す。子どもたちは実におとなしい。しかし堅苦しすぎており、少しませている。」




「赤ん坊の泣くのを聞いたことがなく」というのは大仰でしょうが、日本のこどものおとなしさと行儀のよさは、彼女だけでなく多くの外国人が記録に残しています。そして「こどもの楽園」だと。彼女は、日本のこどもたちの服装について、よほど珍奇な印象を持ったようです。


「子どもには特別の服装はない。これは奇妙な習慣であって、私は何度でも繰り返して述べたい。子どもは三歳になると着物と帯をつける。これは親たちも同じだが、不自由な服装である。この服装で子どもらしい遊びをしている姿は奇怪なものである。」


こどもが大人と全く同じ服装をしているのが、「奇怪」だというのはちょっとわからないですね。日本の子どもは「小さいサイズの大人」だとは、この頃の外国人の記録によく見られる表現で、日本の社会は大人と子どもの区別がないというように見られていたようです。もっというなら人間も動物も区別がないような社会でした。区別がないから、馬には調教などという馬にとっては嫌なことをする習慣がなかったのです。去勢などもってのほかでしょうね。


 彼女は礼讃だけではなく、山深い貧しい村で暮らす人々の謹みのなさをこのように表現しています。


「私がかつて一緒に暮したことのある数種の野蛮人と比較すると、非常に見劣りがする。」


そして、次のように続けるのです。


「日本人の精神状態は、その肉体的状態よりも、はたしてずっと高いかどうか、私はしばしば考えるのである。彼らは礼儀正しく、やさしくて勤勉で、ひどい罪悪を犯すようなことは全くない。しかし、私が日本人と話をかわしたり、いろいろ多くのものを見た結果として、彼らの基本道徳の水準は非常に低いものであり、生活は誠実でもなければ純粋でもない、と判断せざるをえない。」


 彼女の記録は、一見矛盾に満ちています。学術研究でなく旅行記ですのでそれを咎めたりすることは酷でしょう。同じ景色を見ても、その時の心のあり方によってそれが薔薇色になったり、灰色になったりするのが人間の心なのですからね。


 今日はこれまで。

2010年11月3日水曜日

吉田松陰 2

以前、ここでご紹介しましたが、吉田松陰=「ヨシダ・トラジロウ」の伝記は、「宝島」や「ジキル博士とハイド氏」の作者スティーブンソンによって日本で松陰の伝記が著されるより前に書かれていたと。


http://3and1-ryo.blogspot.com/2010/10/blog-post_21.html

今日はこの続きを書きます。出所は「烈々たる日本人」よしだみどり 祥伝社です。


同書に、著者自身が訳した「ヨシダ・トラジロウ」が出ています。その最後は次のように締められています。


「これはひとりの英雄の話であると同時に、英雄的な一般の人々の話でもあることを、読者が気づいてほしいからである。ヨシダのことだけを脳裏に刻み込むだけでは十分ではない。私たちはあの足軽のことも、クサカベのことも、また、熱心すぎて陰謀がばれてしまった長州の18歳の少年・ノムラのことも、忘れてはならない。
 これらの気高い志の紳士たちと同時代を生きてきたということは、気分がワクワクするようなすばらしいことである。
 宇宙の比率で語るとすれば、たった2,3マイル離れた所で、私が学校の授業をのらりくらりと受けているころ、ヨシダは眠気を覚ますために自ら蚊に刺されていたし、あなたが所得税の1ペニーを出し惜しみしているころ、クサカベは高潔な名言を吐いて死に向かって歩んで行ったのである。」


ここに出てくる「足軽」とは、松陰とともに密航を企てた金子重輔、「少年・ノムラ」は野村和作、松陰が企図した対幕府戦の密使となり脱藩するも捕えられる人物です。「クサカベ」は薩摩の日下部伊三次の息子、日下部祐之進の事でした。また、ここで出てくるクサカベの高潔な明言とは、


「大丈夫寧ろ玉となりて砕くべし
瓦となりて全うすること能わず」


でした。


 スティーブンソンは、かなり詳しく松陰のことを知っていたことがわかります。一体、誰が彼に日本の吉田松陰のことを伝えたのでしょうか。


 それは1878年の夏ごろと作者は書いています。その頃日本から留学生を受け入れていたエジンバラ大学のジェンキン教授の下で学んでいた元長州藩士正木退蔵から、松陰のことを聞き知ったといいます。正木は自身も松下村塾生でした。


 何が、スティーブンソンをしてヨシダトラジロウの伝記を書かしめる程の感情を起こさせたのでしょうか。おそらく、正木から聞く松陰の人となりと、その志が彼の心の琴線に触れたことと思います。同書にはそのあたりの事情も書かれていますが、ここでは触れません。


 松陰は、すべての人に非常に優しい態度で接したと言われています。それをなさしめたのは、彼の末弟である敏三郎の生来の聾唖という障害のためであったと同書に書かれています。私はそれを知りませんでした。獄中の囚人でさえ、感化してしまう彼の人間力の一端は、そういった深い人間愛、愛情によって育まれたのでしょう。


最後はスティーブンソンの言葉で締めくくります。


「彼(松陰)の人生と体力と時間のすべてを捧げて、ついには命をも投げ打ってまで得ようとしたものは、今日の日本が広く享受し、大いに恩恵に浴しているものであることを忘れてはならない」


今日はこれまで。


 

2010年11月2日火曜日

サムライとスフィンクス 上海での光景

スフィンクスの前で集合写真におさまるサムライたち。この写真ご存知でしょうか。


これは元治元年の旧暦2月28日に撮られた写真です。西暦でいうと1864年、維新の4年前のことです。


この旅の一行は全部で34名、この写真に収められているのはそのうち27名で、その人物の名前もすべてわかっています。
第二回の幕府遣欧使節団の一行で、その目的は開港した横浜を再び閉じることの交渉とされていました。また、攘夷を名乗る浪士にフランス陸軍士官が殺害された事件の謝罪も含んでいました。この交渉ははなから成功するはずのないことはその一行も、幕府もわかっていました。朝廷への単なるポーズにしかすぎなかったのです。


文久3年12月27日(1864)に横浜をフランス軍艦に乗り出発し、途中2月に立ち寄ったエジプトでこの写真を撮ったわけです。パリにはエジプト出発後6日目の3月10日に着きました。そして文久4年5月26日にパリを出発し帰国の途に着くのです。日本に帰りついたのは7月18日のことでした。


この一行の中には、国際法を学んだ法律家、科学者、医者、両手で算盤を使いこなすことのできる者、兵学の大家などさまざまな人間がおり、中にはフランス語を完全に解した者が1名、その他に7名の男が英語を読むばかりでなく、かなりの実力で英語を話すことができました。17歳から44歳まで、大名からその下僕まで身分もさまざまでした。


 一行の中の若いサムライたちは、正確に日本の後進性と西欧の先進性を認識し、来るべき新しい社会はどうあるべきなのか、そして日本人としてどうそれに向き合うべきなのか、漠然としたものではありましたがその答えらしきものを持っていたように思います。


 そんな一行が過ごした、ある夜の話が僕は大変好きなのでご紹介します。


 一行は上海に寄港し、その民衆の貧しさの中で屹然と断つイギリスのホテルで寄港最初の夜を迎えました。入口一つで天国と地獄のような差があり、おそらくその落差に戸惑ったと思います。上海の民衆は、江戸の下層の人々よりもはるかにみすぼらしい格好で、それが町をおおっているかのような印象でした。


 身分の低い若い若い彼らは、ホテル1階の大食堂で食事をとりました。大きなテーブルでイギリス人に交じりながらナイフとフォークを使ったフルコースメニューでした。英語を話せる彼らがイギリス人に話しかけると、イギリス人はみな一瞬驚いた顔を見せたあと、彼らと会話をするようになります。ちょんまげを頭に載せた日本のサムライが英語で話しかけてきたことの驚きでしょう。そのうち一人のイギリス人がピアノに近づき、ピアノを弾き始めました。サムライたちは「おやっ」という表情をみせ、すぐにそれと知り驚きました。そのイギリス人は日本帰りだったのでしょう、彼が引いたのは江戸で大流行していた「チョンキナ」という曲だったからです。


「チョンキナ チョンキナ
チョン チョン キナ キナ
チョンがなのさで チョチョンがホイ」


たったこれだけの歌詞の当時の流行歌でした。そのメロディーを奏でるピアノの前に彼らは集り、自然と大合唱になりました。上海という異国の地で、それを弾くのがイギリス人、そこで合掌するのが日本人という、奇妙な絵です。


そのうち、16歳の少年益田進が


「よし、俺がアコーディオンを弾いてやる」と、側にあったアコーディオンを手にとると、そのピアノに合わせ、軽快にアコーディオンを奏で始めました。今度は驚いたのが回りにいたイギリス人です。日本のサムライが西洋の楽器を奏でるなど思いもよらなかったのでしょう。あちこちで口笛が鳴り響き、ヤンヤヤンヤの大合唱になりました。


 益田少年は米国領事館勤め時代にハリスからそれを教わり、ハリス帰国後もアコーディオンを買い求め自宅で練習を続けていたのです。彼は後に益田孝と改名し、三井物産を創始します。


 もう一人の少年矢野次郎兵衛、当時15歳は矢野次郎と改名し、明治新政府に仕え「東京府商法講習所」を設立します。後の一橋大学です。彼も益田少年同様アメリカ公使館に勤めていました。




 本日紹介したかったのは、この奇妙な光景です。なぜだかわかりませんが、僕にはこの光景がまるで見ていたかのようにくっきりとイメージできるのです。そして、微笑ましくも、もの哀しくもなってしまうのです。ここで取り上げた益田、矢野の2人の少年たちも、終生あの上海の一夜を忘れなかったのではないでしょうか。




 今日はこれまで


追伸)
本日の出典は「維新前夜―スフィンクスと34人のサムライ」鈴木明 小学館ライブラリーです。

2010年11月1日月曜日

哀しき零戦

 日経「私の履歴書」。


 月が改まり、本日より三菱重工業相談役の西岡氏なる方に変わりました。連載初日から三菱名古屋工場のシンボルの撤去を中止させたという内容が出てました。記事にあった通り三菱の名古屋工場というのは、かつての海軍の戦闘機零式艦上戦闘機を生んだ場所なのです。「ゼロ戦」といえば、今でも多くの人はその名前くらい知っていると思いますが、今日はその辺りの話を書こうと思います。


 世に知られる「ゼロ戦」とは、正式名を「零式艦上戦闘機」といいます。この「零」ですが、この戦闘機が日本海軍に正式採用されたのが昭和15年(1940)、日本皇紀2600年でしたのでその末尾の「0=零」をとったわけです。ちなみに日本の兵器の名称は、その皇紀の末尾から取られたものが多々あります。


 そのゼロ戦の設計主務者となったのが、三菱の若きエースであった堀越二郎でした。30代前半だったと思います。堀越は、既に最高の戦闘機と呼ばれた海軍の96艦戦を設計しており、その力量は三菱社内だけでなく広く海軍にも知られていました。


 海軍から出された要求性能書をみて、三菱以外の航空機メーカーはそのコンペを途中で辞退してしまい、次期海軍の主力戦闘機は堀越一手にかかることになります。要求性能書には、当時の航空機の水準をはるかに上回ることが列記され、堀越自身も「どう考えても、要求通りにつくるのは無理だと思った」といいます。昭和12年のことです。


 ゼロ戦の初陣は昭和15年9月。支那事変においてでした。13機のゼロ戦で敵機27機(ソ連製中国機)を全機撃墜という華々しいものでした。その後、昭和16年12月の大東亜戦争開戦まで、撃墜されたのは僅か2機、それもそのうちの1機は高射砲によるものという、圧倒的な強さを見せていたのです。


 中国空軍にはアメリカの退役軍人という建前で実は現役軍人である「フライングタイガース」という義勇軍がありました。その指揮官は、「日本がとてつもない戦闘機を開発して実戦に投入してきた」とアメリカ本国に警告を発しました。ところが、本国はその警告を無視します。「日本にそんなモノをつくる力はない」という強烈な思い込みと、その指揮官クレア・シェンノートの日ごろの大言壮語が原因でした。


 日米開戦後、アメリカはその警告が本物だったと気づくことになります。ゼロ戦は、当時のアメリカ戦闘機と最高速度が同等でありながら、ひらひらと攻撃をかわす身軽さ、もちろん日本海軍のパイロットの技量が卓越していたことにもよりますが、アメリカ軍機、イギリス軍機ともに全く歯が立たなかったのです。大戦初期の彼らには「ゼロを見たら逃げろ」という命令が出ていたそうです。


 ゼロ戦の優れていた点は、その航続距離と空戦性能にありました。とにかく機体を軽量化することに専念され、ボルトんぽ一つでさえ、徹底的な軽量化が図られていました。パイロットや燃料タンクを守る防弾装置は皆無でした。それには当時の日本の技術上のネックもありましたが、そもそも海軍の要求性能書に「乗員を守る」という発想がなかったのです。これはアメリカの戦闘機とは完全に異なる設計思想でした。


ゼロ戦を見て、その流れるような機体の美しさに女性らしさを感じるのは僕だけでしょうか。ゼロ戦は、大量生産には向かない戦闘機で、どちらかといえば職人の手作りのようなそんなイメージがあります。生産工数もかなりありました。


 
一方、アメリカ海軍のグラマン社製F6Fヘルキャットの武骨な姿はどうでしょう。これは、ゼロ戦に倍する2000馬力のエンジンを積み、防弾性能はゼロ戦とは比較にならないくらい優れたものでした。大量生産向きの機体であることは言うまでもありません。








 大戦末期にはアメリカ軍機は2000馬力の戦闘機が揃えられますが、日本海軍が2000馬力の戦闘機を実戦に投入するのは、昭和20年まで待たねばなりませんでした。紫電改という戦闘機を揃えた部隊の活躍は以前紹介しましたね。


http://3and1-ryo.blogspot.com/2010/07/654.html


ゼロ戦は、改良に改良を重ね最後まで日本海軍の主力戦闘機でありつづけるのですが、活躍できたのは優秀な搭乗員も多く、性能も卓越していた大戦初期までで、中期以降になると苦戦の連続となります。しかし、それにかわる戦闘機を海軍は生みだす事はできなかったのです。そのため、ゼロ戦という機体を使い回したというのが実情です。




 日本の「モノづくりは一番」と自民党が言ってますね。かつて「経済一流」と言われたのも、それが一流たる原因だったと思いますが、「ゼロ戦」という技術の結晶の末路がどうであったかを思うと、そればかりを言い募ることはできまいと思います。「ガラパゴス化」の嚆矢であったともいえるかも知れません。「日本人」にだけ通用、受け入れられる機体であったということです。ディスカバリーチャンネルの「世界の名戦闘機トップ10」には、ドイツのメッサーシュミット、イギリスのスピットファイアはランクインしてましたが、ゼロ戦をはじめとする日本の陸海軍の戦闘機は1機もランクインしてなかったのも、そのあたりが原因かと想像してます。


 余談ですが、当時の日本の戦闘機は、現在のノーマルガソリンより低いオクタン価の燃料で飛んでました。その中で設計通りの性能を出すのは不可能だったということもあったと思います。戦後日本の各種航空機をアメリカ本国へ持ち帰り、品質の良い部品に交換し、オクタン価の高い燃料を入れて飛行させたところ、アメリカも驚くほどの性能を発揮した日本の戦闘機が多かったと言います。


 今日はこれまで。