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2010年7月12日月曜日

この結果を何とみるか・・・

 予想通り、与党民主党は大敗しましたね。管総理は、大敗の原因を自らが発言した消費税率の問題について、あまりに唐突にすぎたのが原因と一番最初に挙げてました。ところが僕はそうはみません。
大敗の一番の原因は、これまでの民主党政権に対しての評価だとみています。ヤフーの投票でも、それが最も多い大敗の原因でした。消費税云々とは違います。それをしっかりと認識してもらいたいと思います。やはり、前党首鳩山という人間のあまりの定見のなさ、しかもそれを支える人間が民主党内にいなかったことが、予想以上の失望を多くの人に与えたのではないかとみています。力もないくせに個人プレーに走った挙げ句があの迷走でした。外務大臣、防衛大臣、沖縄担当大臣は一体何をしていたのか?特に沖縄担当大臣は前原で、彼は米国でそれを認めている程の安全保障の専門家ですよ。鳩山という個人が辞めることで責任をとるだけではすまないと僕は思います。

未明の管総理の会見で、「民主党の国家観は?」と問われた彼の回答は「国民主権、あくまでも国民の生活が第一だ」と述べてましたが、果たしてそれは「国家観」でしょうか?そしてもうひとつ、「国民主権」という場合の「国民」とは誰を指すのか?ということ。そういう言葉の定義をきっちりと語ることが政治家に求められることだと思うのですがどうでしょうか?

1年で3万人を超える自殺者があり、人口比でみれば先進国中で最悪の事態が争点にもならず、韓国の哨戒船を魚雷で沈めた北朝鮮の問題、軍拡路線をひた走る中国、GDPで日本を追い抜いてしまう中国の台頭に、この国はどう向かっていくのかというビジョンを説いた政党があったのか?まさしく国家観の欠如!かつて三島由紀夫がこんなことを言っていました。

「やがてこの国はなくなろう。そして東洋の一角に経済共同体が残るのみ」

もはや「経済共同体」として残るのも疑わしい事態になってきているではないですか。考えれば考えるほど嫌になります。

2010年7月8日木曜日

救国論

 今月号の文藝春秋の巻頭は藤原正彦の「一学究の救国論 日本国民に告ぐ」でかざられています。僕は、彼のベストセラー「国家の品格」を読んだ事がないので、初めて彼の論を読みました。彼の主張はこの国の混乱の原因は、GHQと日教組にあるとし、「東京裁判史観からの脱却」によって、「誇りある国家を取り戻せ」ということで、まさに我が意を得たりといったところでした。

「東京裁判史観」なるもの。いつか皆さんにご紹介したいと思いますが、このめちゃくちゃな政治劇を金科玉条のように崇め奉っているこの国の姿は奇怪であるといいようがないと思っています。昭和16年11月26日に米国から突き付けられた最後通牒、通称「ハルノート」をご存じでしょうか?それまでの十カ月に及ぶ交渉の経過を完全に無視して「日本は明治維新前の四島に戻れ」と言ったに等しいこの文章によって、日本国政府は絶望するのです。「最早戦争しかない」と・・・。米国との戦争を欲していた政府高官、陸海軍人の高官はほとんどいませんでした。もちろん、中には勇ましい言を吐く軍人もいましたが、それが軍の総意ではありませんでした。勝てる見込みがないのは皆わかっていたからです。

もう少し敷衍しますと、交渉の重要案件は日本が中国本土からの撤兵に応じるか否かでした。日本国は満州国さえのこれば、中国本土からの撤兵も止むなしとさえ考えていたのです。それで米国が禁輸を解消するなら・・・。当時の米国世論は8割が戦争反対、ルーズベルト大統領も「皆さんの息子を戦場には送りません」といって大統領になったのです。欧州ではドイツが全土を席捲するような破竹の快進撃を続けていた時です。既にフランスは降伏し、英国は虫の息、ソ連も危ないという中で、米国民はそれでも対岸の火事であると見なし、戦争に反対していたのです。議会も反対でした。それをなんとしても打破して、欧州戦線に介入したいのが米国政府の意向、そのための生贄になったのが日本でした。

東京裁判において、日本の弁護団の一員だった弁護士米国人ブレークニーは、法廷で次のようにいいます。

「このような通牒を突きつけられたら、モナコやルクセンブルクのような小国でも米国に対して銃を持って戦うだろう」

彼は、「広島、長崎に原爆を落とした国が『平和に対する罪』で被告を裁こうとしている」と米国にとって痛い事を平気で裁判で述べるなどの正義の人でした。

東京裁判の判決で有名なのはインドの判事として臨席したパール博士(法学)でしょうね。彼は「日本無罪論」をかなりのボリュームでまとめて判事団に提出しました。

後日談ですが、朝鮮戦争で中国本土の爆撃を具申して解任されたマッカーサーは、その直後の米国上院の公聴会において、かつての日本の戦争を「自存自衛の防衛戦争であったと思う」と証言してます。

安倍総理の時でしたか、インドの大統領が国会で演説しましたが、その内容が日本のマスコミによって発信されることはありませんでした。その演説内容は、かつての大東亜戦争の意義を掘り起こし、日本に感謝の意を表す内容だったのです。

市井の庶民が切歯扼腕しても致し方のないことで、そういうことが煩わしいので僕はあえて目を閉じ耳を塞いでいますが、
かつて三島由紀夫が「絶対の青空」と言った夏の青空が広がる季節になると、つらつらそういことを考えざるにはいられないのです。

2010年7月7日水曜日

理想のリーダー像

 かつての帝国陸海軍と戦火を交えた国の将官は、一様に次のように述懐してます。
「日本軍は現場指揮官は素晴らしいが、上級指揮官はくずのようだった」
この話をすると、経営コンサルタントとして多くの企業をみている人は、「今の日本の企業も同じです」と慨嘆します。

 今日は、ここから話を進めます。

これ、よく考えると極めて不思議な話だと思いませんか?現場指揮官を中隊長(200名規模)として考えてみましょう。
この中隊規模と言うのは、一人のリーダーが完全に統率できる人数の限界ではないかと私は思っていますが、最前線で戦う指揮官として、権限を行使して責任もとる覚悟が最も如実に表れる立場の指揮官であるといえるでしょう。このクラスの指揮官は、敵国からも賞賛されるくらいの立派なリーダーがたくさんいたのだと思います。さて、「くず」と称された上級指揮官は、当然のことながら、現場指揮官としての経験を積んでからその立場にたちます。しかし、なぜ上級指揮官になると「くず」呼ばわりされるほどになってしまうのでしょうか?

私見ですが、上級指揮官になると「権限を行使して責任をとる」というリーダーの必須条件がないがしろになってしまうからではないかと思っています。偉くなればなるほど「権限を行使しないで責任をとる」というリーダーになってしまうからだと思うのです。西南戦争時の西郷隆盛のごとく、「坂の上の雲」で描かれた大山巌のごとく、全てを部下に任せて好きなようにやらせ、最後の責任だけはとる、というような指揮官のタイプこそ理想だという風潮があったからではないかと思うのです。そして、今でもそれはこの国に残っているように思います。(今は責任もとらない人間が多いかも知れません)

現場指揮官ならば、判断は自らの意思だけで済みますが、上級指揮官になればなるほど多くの意思との調整をしなければなりません。そういった時でさえ、明確な判断を差し控えたからではないかと思うのが僕の推測です。判断できないのではなく、差し控えたのです。部下の好きなようにやらせ、最後の責任だけをとるのが指揮官だという妙な呪縛から逃れられなかったのです。

昭和3年に陸軍参謀本部が著した「統帥網領」。これは階級では中将以上、職責では軍司令官以上の高級指揮官の教科書ですが、その中に「軍隊指揮の消長は『指揮官の威徳』にかかる」と統率を定義しています。そして、その『威徳』を次のように定義しています。
①高邁な品性
②公明な資質
③堅確な意思
④卓越した識見
⑤非凡な洞察力
⑥無限の包容力
そして、「これを身につけ全軍が仰ぎ慕う将になれ。それが将に将たる所以であり、そこに統率の本義がある」と強調しています。以前、ここでも紹介した米国の陸軍士官学校の教育が「人格教育」がその根幹にあるのと、ほぼ同様であるといえるでしょう。(余談ですが、昨今流行のリーダー論やコーチング論には、この極めて重要なものが欠落しているように思えます)しかし、最後の「無限の包容力」は日本独自のものです。包容力を強調する「無限」という言葉は、要するに「高級指揮官はゴチャゴチャ言わずに部下の言う通りにやってくれ」というのが本音のように思います。参謀本部が参考にしたのが日露戦争時の満州軍総司令官大山巌の統率だったと言われています。大山巌こそ将軍の中の将軍、品性から包容力に至るまでのリーダーの要件を備え、特に包容力については抜群の存在である、とされたのです。このあたりのエピソードは「坂の上の雲」でも描かれ、広く人口に膾炙してますが、これが実は虚像であったという説もあります。しかし、その虚像をもとに、参謀本部が高級指揮官を補佐する参謀が働きやすいように勝手に理想の指揮官像を作り上げ、それを教科書にしてしまったのです・・。そして、今なおそれがこの国に蔓延している理想のリーダー像になっているような気がしています。

2010年7月3日土曜日

指揮官たるもの・・・

 1998年のフランスワールドカップ直前に、当時の岡田監督は遠征先の土壇場で「カズ」を外しました。これまで、どんなに調子が悪くても不動のフォワードとして、オフト、加茂時代の代表から定位置を約束されていた彼を外したのです。「自らの戦術に合わないから」と・・・。日本国中は大騒ぎしました。血も涙もない監督だと。これまでのカズの功績を考えたら、誰もが驚愕する事件でした。僕は今でも残念でなりません。

今回のワールドカップでも、岡田監督は不動の10番中村俊介をレギュラーから外しました。これもすごい決断だったと思います。どうも岡田監督は、そういう決断をせざるを得ない星の下にあるような人ですね。血も涙もある人間でしょうから、岡田監督の胸中は察するにあまりあります。

組織には機能体(ゲゼルシャフト:例えば企業、軍隊)と共同体(ゲマインシャフト:例えば家族、地域社会、趣味の会)があります。このふたつは構造も目的も違うわけですから、その運営にあたってはその違いを明確に認識する必要がありますが、日本人は、どうも情に弱く、機能体でありながら共同体に流れやすいように思います。この二つの組織の明確な違いを一つあげると、人材評価の尺度があります。機能体では「外的評価による能力と実績」、即ち目的への効率性とでも言えましょうか。一方の共同体は「内的評価による人格」、即ち情であり、波風立てるなといった世界です。これまで何度か述べてきた帝国陸海軍は、機能体でありながらその人事評価は共同体のそれでした。最後までブレイクスルーができませんでした。これも敗戦の原因の一つです。つまり、適材適所ができなかったのです。

さて、日本代表を二度に渡って率いた岡田監督は、明確にその人事評価を貫いた名指揮官といえるでしょう。言うまでもなく日本代表チームは機能体組織であるべきで、そうであるならばその人事原則が最優先されるべきです。カズを外したのも、岡田監督の考える勝つための戦術に彼が不要だったからで、今回中村俊介を外したのも同様の理由でしょう。これはすごい決断だったと思います。考えてほしいのは、今回ベスト16まで進めたからいいようなものの、1次リーグで敗退していたら、多くの非難を浴びたのは間違いありません。どちらにせよ、指揮官の相当な勇気と覚悟がいります。それを見事に成し遂げた岡田監督は本当に勇気ある指揮官だったと思います。

ところで、企業経営にせよ戦争にせよ、純粋な機能体組織こそがベストなのか?といえば、歴史はそうは教えていません。織田信長のつくりあげた軍事組織は、純粋な機能体組織でしたがその末路と、その後の歴史はどうだったか。次いで登場した豊臣秀吉は共同体組織から機能体組織への転換がうまくいかなったことを教えてくれています。

ここから先はまたいずれ。

話は変わりますが、岡田監督が帰国会見の席で「日本人の中に脈々と受け継がれているものをもって」戦ったといいましたが、果たしてそれは一体何を意味するのでしょうかね?惜しくも負けてしまったブラジルですが、代表監督ドゥンガはかつてジュビロ磐田でプレーしてましたが、当時からブラジル代表でもあった彼が、なぜサッカー後進国のJリーグでプレーすることを決断したかを問われて、「日本はサムライとカミカゼの国だから」と言ったことはご存じでしょうか?この国が教えもせず、忘れ去られている「神風特別攻撃隊」は、今なお海外で脈々と語り継がれているているのですよ。

2010年6月29日火曜日

懺悔

蒸し暑い日が続きますが、みなさん御機嫌いかがでしょうか?

今日はサッカーの話題です。
日本人の一人として、本日の日本代表の健闘と勝利を望みます!
何としても勝ってくれ!!!

かつて一度仕事を一緒にした造園コンサルタントの方に筋金入りのサッカーファンがいました。1978年のアルゼンチンでのワールドカップから、かかさず観戦に行っているとのこと。
彼は日本中のサッカー場を芝生にしたいとの夢をもち、造園コンサルタントの道に進んだそうです。
オフィスも国立競技場の近くにあるほどです。
午前中の打合せにもかかわらず、U17の国際大会をを朝方まで観ていたと、眠そうな目をこすっていたのを思い出します。

僕は、1990年代初めのオフト監督時代から日本代表を意識するようになりました。オフトが監督になるまでは、ワールドカップに日本が出場できるなど、大方の人は想像すらできなかったと思います。僕もそうでした。有名な話ですが、オフトが日本代表監督に就任する前、確か、マツダのサッカー部のコーチとして招かれた時、サッカー部メンバーの顔写真をみただけで、8割くらいのポジションを言い当てたそうです。日本代表(日本のサッカー)の躍進は彼によって始まったと思います。

1998年のフランスワールドカップ。臨時に監督となった岡田監督は、「1勝1敗1分けでグループリーグを突破する」と公言してました。戦う相手はクロアチア、アルゼンチン、ジャマイカでした。すぐに推測出来るとおり、ジャマイカに1勝、アルゼンチンに1敗、クロアチアに1分けと、星を読んだのでしょう。僕は、監督が言ってはいけない言葉だと思いましたね。選手のどこかに「一つは負けてもいいんだ」という気持ちが芽生えるのは当然ですから・・・。結果は3敗でした。

2002のトルシェジャパンの時もそうです。決勝Tに進出してすでに満足していましたね、トルシェは。
「ここからはボーナスだ」と言った彼の言葉にそれがよく現れています。
岡田監督は、それを戒めとしているようです。だから最初からベスト4と公言したのかも知れません。

大会直前の日本代表の戦いぶり、試合結果をみて「岡田監督では駄目だ」と多くの人が思ったのではないでしょうか?それが今では、それに口をぬぐっています。僕もその一人でしたから、「懺悔」です。今になって岡田監督を褒めるなら、それまでの自分の物言いを撤回して謝るべきでしょうね。
サッカージャーナリストの人々は・・・。

日露戦争が終り、史上空前の勝利を成し遂げた聯合艦隊を解散するとき、東郷平八郎は次の言葉でその解散の辞を締めくくりました。

「古人曰く、勝って兜の緒を締めよ」

日露戦争中、日本のファンであった時の米国大統領セオドア・ルーズベルトは、それに非常に感銘を受け、英訳したものを彼のスタッフに配ったと言われています。

パラグアイに勝ち、次の試合、日本対スペインかポルトガルとの試合を何としても観たいですね。








2010年6月22日火曜日

「坂の上の雲」から考える

「坂の上の雲」は、いつだったかの「文藝春秋」で、企業経営者の最も好きな本として確か第1位に挙げられていました。昨年末の第1回放映とも相俟って、再びその人気に火が付いているようですね。司馬遼太郎は、生前その映像化について非常にナーバスになっていたといいます。彼は日清・日露の戦いを明確に「祖国防衛戦争」と言い切っていますが、それを映像化することを躊躇していました。

僕にとって同書は何度も読み返した本の一つですが、放映は観ていません。さらにいうと、「坂本龍馬」は僕の好きな人物の中の一人ですが、やはり今の「龍馬伝」は観ていません。

「坂の上の雲」は秋山好古、真之兄弟を話の中心においた明治期日本の青春群像と、国家の隆盛を重ね合わせたようなものです。感情移入がしやすく、あの頃の日本に対して多くの読者が共感を覚えるのではないかと思います。

さて、企業の寿命30年説というのがありますね。前回紹介した三品和弘によると、30年というのは「企業」ではなくて「事業」と考えるとわかりやすいとしています。なにも無いところを耕し、種をまき、実を結び収穫する。しかし、やがて土地が痩せて来て収穫量が減る。それがひとつの事業の終りだと。偶然なことに30年というスパンは人間の代替わりとほぼ同じなのです。

まさしく皇国の興廃をかけた日露の戦いは明治38年(1904)に起こりました。明治日本の国内体制の完成を最後の内戦である西南戦争(明治10年)後であるとするなら、約30年後にそれを迎えることになりました。日露戦争後、児玉源太郎をはじめとする維新の経験者の多くの寿命が尽きていることを考えると、また、維新の経験者を「創業者」と捉えるならば、あの戦争は明治日本創業者たちの最後の仕事となったことになります。創業者というジェネラリストが、二代目の戦争のスペシャリスト(陸軍大学、海軍大学を卒業したエリート将校)を使いこなして戦った戦争というわけです。
しかも、二代目も江戸末期生まれであり、道徳的支配者としての「武士」のモラルを濃厚に引き継いでいたことが幸いしたように思います。司馬遼太郎は、その例として明治期日本の汚職の少なさを「世界史の中で稀」としていますね。

余談ですが、そのひとつのエピソードとして、明石元次郎大佐の話をあげましょう。明石大佐は命令により、ロシアに潜入して帝政反対勢力を結集しロシア国内に革命を起こそうと奔走しました。かれは当時の日本の国家予算の0.6%(不正確)だかをその活動資金として支給されてましたが、帰国後残金を1銭たがわず、明細書と併せて返納したといいます。

日露戦争後、創業者であるジェネラリストは死に絶え、二代目以降のスペシャリストが軍を率いるようになります。その二代目、三代目は何をしたか?司馬遼太郎ふうにいえば、彼らは国を滅ぼしました。象徴的なのが日露戦争後約30年の昭和14年(1939)「ノモンハン事件」です。これは満州と蒙古の国境紛争なのですが、ソ連の機械化師団に日本軍は完膚なきまでに惨敗するのです。日本軍の戦法は前に説明した「白兵突撃」です。鉄のかたまりに肉のかたまりで正面からぶつかったわけです。この事件については、いずれまたご紹介します。昭和期の日本は、創業者の遺産にしがみついていたといえるでしょうね。痩せた土地で同じ作物を植え続けていたわけです。

日本の高度経済成長は昭和30年(1955)から始まったといわれています。日本経済を牽引したのは、創業者が率いる企業が多かったのではないでしょうか?あくまでもイメージです。検証してません。ただ、代替わり、または事業の寿命をを30年とすると、妙に符合します。1990年代(平成初頭から中期)から日本は失われた10年とよばれる長い不況時代に突入します。多くの企業で創業者から代替わりした時代だからと言えなくもありません。


江戸幕府が15代続いた原因をもっと考えるべきなのかも知れませんね。

2010年6月18日金曜日

やはり名著だ・・・

早いもので、3と1の会も来月の開催が第29回の開催となる。その第1回は、私が講師を務めて左記の「経営戦略を問い直す」を皆さんにご紹介した。僕自身は、この本で著者三品和弘を知り、その後彼の全著作をそろえた。そのすべてが非常に面白かった。「戦略」という言葉を使いさえすれば、なにかしら高尚な感がする、頭を使った感がする。ただそういう空気に流されてその言葉を多用しているだけなのが現実の姿だと、著者は言いきっている。単なる「戦術」にしかすぎないものまで、「戦略」という言葉を使っているため、真に「戦略」といった言葉でしか定義できない「なにものか」を伝える術を失ってしまっていると。

著者は、経営戦略とは「長期利益の極大化」を目的としたものに他ならないと断言する。10年単位での長期利益の極大化こそが目的だとしている。


著者は「戦略」という言葉の誤用の例として、2001年の日経ビジネスの記事から、当時のアサヒビールでの例を挙げている。アサヒビールでは、本社のスタッフ部門に人事戦略部、経営戦略部、IT戦略部と、その語を用いた。それは「スタッフは戦略を考えてほしい」という経営トップの思いが反映されているからだそうだ。

著者いわく、「ここにあるのは『頭を使って仕事をしてほしい』という願望であって、その願望を表すために戦略という言葉を流用するのは拡張解釈の域すら超えている」と・・・。

もうひとつ。ソニーのサイバーショットP3の成功についての日経ビジネスの以下の、
「鈍化しているデジタルカメラの伸び率を復活させるべく選んだ戦略の結果だった。同社のデジタルカメラ事業を再離陸させるためには、女性のデジタルカメラ初心者をいかに獲得するかが課題だった。同社は20~30代の女性新規ユーザーを獲得する案を練った」
という記事を、「これはクラウゼヴィッツが定義した『戦術』そのものである。」とばっさり斬っている。商品個々の競り合いは、軍事用語でいう交戦に相当する。いかに勝つかという関心は、時間の流れの下流でしなかく、戦略は同じ時間のもっと上流に位置する。すなわち「戦うか否か、または今か後か」である。それこそが戦略の領域であるとしている。

著者は誰でもいつでもつくれるようなものは戦略の領域には属さないとし、長期利益の極大化を成し遂げた日本企業の中からいくつかの重要な事項を指摘している。それは、「長期利益の極大化を成し遂げている企業の社長の任期は全て10年以上である」ということである。社長の長期任期が成功を約束はしないが、成功企業の全てで経営のかじをとるトップは10年以上の任期を務めているというデータを紹介している。同じ業界に属し、創業も同じころの「キヤノン」と「ニコン」、「花王」と「ライオン」の企業収益の差、どちらも前者の成功は長期にわたって舵取りをおこなってきた経営者の心眼にこそあったとし、「戦略は為すのではなく、むしろ読むことにある」と断言している。


以上の論を敷衍、さらに掘り下げたのが左記の本で、こちらは冒頭に、日本の三大ハムメーカー、日本ハム、伊藤ハム、丸大ハムの企業業績の比較から始まっている。いずれも創業は同時期で、であったこの3社の業績の推移を載せ、今では比較にならないほどの差を残り2社につけて業界首位にたった日本ハムの成功の原因は、20年以上社長に君臨した創業者であったということを推測させている。他2社ともに、創業社長が亡くなり二代目社長になった時から凋落が始まっている事実があるのだ。

この本は日本の上場企業1千社超の、約50年にわたる長期の業績から、利益の極大化を成し遂げ続けている企業が僅か数10社しかないことを明らかにしている。

1970年代だった思うが、エズラ・ボーゲルの「ジャパン・アズ・ナンバーワン」がベストセラーになり、日本的経営の良さが、アメリカから発信された書籍によって再確認された時期があった。当時の日本企業は世界市場をまさしく席捲し、米国企業の凋落が騒がれた時期であった。これも、著者の示したデータから考えると、当時の日本企業の経営者は創業者が多く、一方の米国企業は2代目、3代目経営者が多かったからと言えなくもないし、事実その通りでもあった。

翻って、現在はどうか?元気な日本企業は、やはり創業者が経営のかじ取りをおこなっている企業ばかりである。「日本電産」しかり、「ユニクロ」しかり、「ソフトバンク」しかり・・・。ソニーの凋落は盛田氏が亡くなってから始まり、今では韓国サムスンに売上を抜かれてしまっている。サムスンは創業者が率いている。

創業者と2代目、3代目社長の差は何なのでしょうか。僕にはよくわかりませんが、ひとつは「勇気」があるか否やではないかなと思います。

「西郷南洲遺訓」にこうあります。

「事に当たり思慮の乏しきを憂うることなかれ。およそ思慮は平生黙坐静思の際に於いてすべし。
有事の時に至り、十に八九は履行せらるるものなり。事に当たり率爾に思慮することは、例えば臥床夢寐(むび)の中、奇策妙案を得るが如きも、明朝起床の時に至れば、無用の妄想に類すること多し」

「戦略」は誰もが「バカな」と思うことをやり遂げるからこそ成功し、その真意をきけば「なるほど」と納得するもの。思慮がすぎれば「バカ」なことをやりとおすことができなくなってしまうからではないでしょうか。勇気の問題かなと思う所以です。

「創業」の成功が次世代の成功を約束しないのは歴史をみれば明らかですね。鎌倉幕府の源氏政権は3代で終り、豊臣政権は僅か1代で亡びました。秀吉は仕組みを残して自らの政権を存続させようとしましたが、失敗しました。この話はいずれまた。


著者三品和弘先生(神戸大学の教授)は、最近新刊を出しました。左記の本です。多分、奥田さんが買ってくれることになっています。


それではまた。