『言葉は乱用されてきたために権威を失墜した』
最近、僕はつくづくこのように思います。
しかしながら、世はあげて「Twitter」なるものに浮かれているように思います。
個人の「つぶやき」なんぞになぜそんなに群がるのか・・・。
僕には理解不能であります。何でも政治家もこぞって「つぶやい」ているとか・・・。
『ことの善し悪しはともかく、今日のヨーロッパの社会生活において最も重要な一つの事実がある。それは、大衆が完全な社会的権力の座に上ったことである。大衆はその本質上、自分自身の存在を指導することもできなければ、また指導すべきでもなく、いわんや社会を支配するなどおよびもつかないことである。したがって、この事実は、ヨーロッパが今や民族、国家、文化の直面しうる最大の危機に見舞われていることを意味している。こうした危機は、歴史上すでに一度ならず襲来しており、その様相や、それがひきおこす結果は周知のところで、その名称も知られている。つまりそれは、大衆の反逆と呼ばれている。』
『この大衆人とは、自分の歴史を持たない人間、つまり過去という内臓を欠いた人間であり、したがって「国際的」と呼ばれるあらゆる規律に従順な連中である。それは人間というよりはむしろ、たんに市場の偶像によって作りだされた人間の一つの殻にすぎない。すなわち、彼らには「中身」が、つまり頑として他人のものとなることを拒否する譲渡不能な彼自身の精神が、取消すことのできない自我が欠如しているのである。そのため、彼らはつねに、中であることを装おうと待ち構えた状態に置かれている。大衆人はただ欲求のみを持っており、自分には権利だけがあると考え、義務を持っているなどとは考えもしない。つまり、彼らは自らに義務を課す高貴さを欠いた人間―sine nobilitate―であり、俗物snobなのである。』
これは、オルテガ・イ・ガセットというスペインの社会学者が1930年に著した「大衆の反逆」の中の一節です。
僕は、世論調査によって表明されるこの国の民意などというものは、一切信用しません。あんなものは、感情ですらなく、その時々でうつろうムードのようなものだからです。考えてもみて下さい。小泉内閣時代、「郵政民営化」を争点にして衆議院選挙が行われ、時の民意は「民営化」に賛成しましたね。それも圧倒的な大差で。今、それがないがしろにされつつある法案が可決されたにもかかわらず、なぜ「反対」の民の声があがらないのか。郵政民営化にYesといった民の声は一体どこへいってしまったのでしょう。
当該事案について、僕は知見を持たないのでその是非は判りません。ただ、問題にしたいのは「民の声」がいかにいい加減なものかを考えてもらいたいと思うだけです。
政治家たるもの、いかに民の声に叛こうと国家百年の大計のためには、鬼神の断をもって事を進めることが必要な場合があります。そして、政治家にはそれを条理を尽して民に説得する言葉を持つ必要があります。それは「つぶやき」などとは全く無縁のものであることは言うまでもありません。
民俗学者柳田国男が著した「京童(きょうわらべ)」という人間類型があります。
彼によるとその特徴は、
①全体に気が軽く、考えが浅くて笑いを好み、しばしば様式の面白さにほだされて問題の本質を疎略に取り扱う
②群れと新しいものの刺激に遭うとよく興奮し、しかもその機会は多く、且つ之を好んで追随せんとしたこと
③何に使ってよいか定まらぬ時間の多い事。そうして何か動かずにはいられぬような敏活さ、是がまた容易に他人の問題に心を取られ、人の考え方を自分のものとする傾向を生ずる
④隣以外の人に一時的の仲間を見付ける為に、絶えず技能を働かせ、また之を改善と努めること
これ、まさしく日本の現代人のことを言っているように思えますがどうでしょう。
しかし、彼はこれを中世の終り頃から京都に顕在化してきた都市民のことを指して説明したのです。「わらべ」と言っても子供のことを指すのではなく、「単に責任を負わざる無名氏」というほどの意味です。
冒頭で述べた「大衆」ですね、要するに。
ここで問題は、今やその「大衆人」に世の中を牛耳られている状況にあるということだと僕は思います。
『今日の状況を改善するために必要な第一条件は、それがいかに困難なことであるかをじゅうぶん認識することである。そうすることによってのみわれわれは、その真の発生地である深層に横たわっている悪を攻撃することができるからだ。ある文明がデマゴーグの手に落ち込むほどの段階に達したら、その文明を救済することは事実上、非常に困難である。デマゴーグは文明の偉大なる扼殺者であった。ギリシャ文明もローマの文明も、この唾棄すべき連中の手によって瓦解したのであり・・・・(後略)』
このオルテガの論は「貴族的」と批判されます。確かにそういう点も否めません。
「democracy」の語源は「demos=民衆」の「kuratein=支配」です。単なる政治の一形態であるにもかかわらず、「民主主義」というようなある種の価値感をそこに与えてしまったために、その呪縛から逃れられないような今日の状況下、こういった論も振れすぎた針(民衆=民の声万歳みたいな)を戻すために必要なのではないかなと思いますがどうでしょう。
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2010年6月1日火曜日
2010年5月18日火曜日
独立国の矜持
普天間基地の問題が予想通り片付きそうにありません。
自民党政権時代に、何年もかけて検討した結果が辺野古案だったのですから、それを上回る案が政権が交代したからといって出てくる訳がないですね。結局辺野古に戻って来て、しかも「くい打ち」による滑走路など、そんな脆弱な滑走路で米国の了解を得られるわけないのは、わかりきったこと。日米関係は急速に冷えてきていますね。もともと、米国民主党は伝統的に親中なのです。かつて、蒋介石を助けて日本との戦争を仕向けたF・ルーズベルトも民主党ですからね。しかも、今の中国は日本をも上回るGDPを挙げつつあり、米中の経済的な紐帯もかなり濃くなってきています。伝統的に反共の共和党ですら中国との経済的連携に大きく舵をきったとしても不思議ではありません。
しかも、民主党のかの大幹事長は600人もの子分を従えて訪中。沖縄の基地移設問題も併せて、「日本は米国をないがしろにしている」と反感、嫌日ムードが蔓延しても仕方のないことですね。一庶民としてはただ、切歯扼腕、うつろな目をした御仁に罵詈雑言を浴びせることくらしかできそうにありません。最近はテレビであの顔を見ると、すぐに消してしまいます・・・。
沖縄の基地移設問題において、欠落しているのは「独立国家としての矜持」だと思っています。そもそも、独立国である以上、外国の軍隊が自国に存在しているのを当然と思うのは大きな間違いです。米国は例えばドイツや、英国にも基地を持っていますが、米国は基地使用料を支払って「使わせて貰っている」です。貸す方としては、「貸してやってる」のです。ところが、日本はどうですか?「使って貰っている」だけでなく、「思いやり予算」だが何だか知りませんが、地主への基地使用料や米軍基地で働く日本人の人件費、挙句の果ては光熱水費まで肩代わりしながら、かつ「使って貰っている」のです。古今東西こんな独立国はないでしょう。この国からみれば、米軍は「番犬様」なのです。
かつてフィリピンでは米国のプレゼンスがなくなって、時の政府と国民は大喜びしましたが、今フィリピン政府が困っているのは、米国の撤退と同時に出てきた中国海軍の傲慢な回遊です。どこだかを占拠されてもいます。日本でいえば、中国との領有権を争っている魚釣島みたいなところです。仮に米軍がこんな日本に愛想をつかし、日本から一切の軍事的プレゼンスをグアムまで後退させたら、またたく間に中国がでてくるでしょう。それと、北朝鮮の脅威もあります。
今、一国だけで自国を守れるのは、米中露の三カ国くらいでしょう。他の大多数の国は一国だけでは自国の防衛が危ういと考えて、自国の国防軍の外に頼れる友として同盟国を持っているのです。その根本は、独立国ならば当然であるところの「自国の国防」意識と、それを担保する軍事力です。欧州は強大なソビエトの軍事力が崩壊し、かつてのワルシャワ条約国はこぞってNATOに加盟したがっています。欧州では軍事的紛争の危機は大いに薄まっています。あるのはテロ組織との戦いだけです。それでも「国防」ということをないがしろにはしていません。一方、アジアは違いますね。北朝鮮というテロ国家が存在し、毎年軍事費を増大し続け、しかもそれを公開していない不気味な中国の存在があります。そんな中で独力で国家を防衛するのはかなり困難です。やはり米国の軍事力は是が非でも必要です。しかしながら、この国はもう少し自国を防衛するに足る気概とそれを担保する軍事力をもう少し考えるべきでしょうね。少なくとも核武装までも真剣に検討すべきだと思います。
かつて、「カルタゴ」という国がありました。今でいうチェニジアです。この国は経済的繁栄だけを追い求め、自国の防衛を全て「傭兵」に頼っていました。世界史でいう第1次から第3次までのポエニ戦争でローマに完全に滅ぼされました。ハンニバルとかスピキオとかいう将軍の名前は知っているかも知れません。
この国がかつてのカルタゴにならないよう明確な舵取りが必要だと思います。
「戦い好まば国滅び、戦い忘れなば国危うし」と中国の古典にあります。
少なくとも、政治家には最低限の知識として国防に関する知見が絶対に必要だと思います。
やわらちゃんには無理でしょうね。
もうあほかと・・・。
自民党政権時代に、何年もかけて検討した結果が辺野古案だったのですから、それを上回る案が政権が交代したからといって出てくる訳がないですね。結局辺野古に戻って来て、しかも「くい打ち」による滑走路など、そんな脆弱な滑走路で米国の了解を得られるわけないのは、わかりきったこと。日米関係は急速に冷えてきていますね。もともと、米国民主党は伝統的に親中なのです。かつて、蒋介石を助けて日本との戦争を仕向けたF・ルーズベルトも民主党ですからね。しかも、今の中国は日本をも上回るGDPを挙げつつあり、米中の経済的な紐帯もかなり濃くなってきています。伝統的に反共の共和党ですら中国との経済的連携に大きく舵をきったとしても不思議ではありません。
しかも、民主党のかの大幹事長は600人もの子分を従えて訪中。沖縄の基地移設問題も併せて、「日本は米国をないがしろにしている」と反感、嫌日ムードが蔓延しても仕方のないことですね。一庶民としてはただ、切歯扼腕、うつろな目をした御仁に罵詈雑言を浴びせることくらしかできそうにありません。最近はテレビであの顔を見ると、すぐに消してしまいます・・・。
沖縄の基地移設問題において、欠落しているのは「独立国家としての矜持」だと思っています。そもそも、独立国である以上、外国の軍隊が自国に存在しているのを当然と思うのは大きな間違いです。米国は例えばドイツや、英国にも基地を持っていますが、米国は基地使用料を支払って「使わせて貰っている」です。貸す方としては、「貸してやってる」のです。ところが、日本はどうですか?「使って貰っている」だけでなく、「思いやり予算」だが何だか知りませんが、地主への基地使用料や米軍基地で働く日本人の人件費、挙句の果ては光熱水費まで肩代わりしながら、かつ「使って貰っている」のです。古今東西こんな独立国はないでしょう。この国からみれば、米軍は「番犬様」なのです。
かつてフィリピンでは米国のプレゼンスがなくなって、時の政府と国民は大喜びしましたが、今フィリピン政府が困っているのは、米国の撤退と同時に出てきた中国海軍の傲慢な回遊です。どこだかを占拠されてもいます。日本でいえば、中国との領有権を争っている魚釣島みたいなところです。仮に米軍がこんな日本に愛想をつかし、日本から一切の軍事的プレゼンスをグアムまで後退させたら、またたく間に中国がでてくるでしょう。それと、北朝鮮の脅威もあります。
今、一国だけで自国を守れるのは、米中露の三カ国くらいでしょう。他の大多数の国は一国だけでは自国の防衛が危ういと考えて、自国の国防軍の外に頼れる友として同盟国を持っているのです。その根本は、独立国ならば当然であるところの「自国の国防」意識と、それを担保する軍事力です。欧州は強大なソビエトの軍事力が崩壊し、かつてのワルシャワ条約国はこぞってNATOに加盟したがっています。欧州では軍事的紛争の危機は大いに薄まっています。あるのはテロ組織との戦いだけです。それでも「国防」ということをないがしろにはしていません。一方、アジアは違いますね。北朝鮮というテロ国家が存在し、毎年軍事費を増大し続け、しかもそれを公開していない不気味な中国の存在があります。そんな中で独力で国家を防衛するのはかなり困難です。やはり米国の軍事力は是が非でも必要です。しかしながら、この国はもう少し自国を防衛するに足る気概とそれを担保する軍事力をもう少し考えるべきでしょうね。少なくとも核武装までも真剣に検討すべきだと思います。
かつて、「カルタゴ」という国がありました。今でいうチェニジアです。この国は経済的繁栄だけを追い求め、自国の防衛を全て「傭兵」に頼っていました。世界史でいう第1次から第3次までのポエニ戦争でローマに完全に滅ぼされました。ハンニバルとかスピキオとかいう将軍の名前は知っているかも知れません。
この国がかつてのカルタゴにならないよう明確な舵取りが必要だと思います。
「戦い好まば国滅び、戦い忘れなば国危うし」と中国の古典にあります。
少なくとも、政治家には最低限の知識として国防に関する知見が絶対に必要だと思います。
やわらちゃんには無理でしょうね。
もうあほかと・・・。
2010年4月9日金曜日
執筆終了
すっかりとご無沙汰してますが、皆さんはお変わりありませんか。
7章構成で原稿用紙800枚ものボリューム。
我ながら驚いています。
執筆中、刑死した青年将校らの霊が僕に憑依して
気がついたら何十枚も書き進んでいた、ということは
ありませんでしたが、今は放心状態です。
ちょこちょこと、自分でも校正をすすめてますが、
これは果てがないですね。
一応、栗山さんにも頼んであるのですが、
なにせボリュームが多くて大変だと思うわ。
読みたい人がいたら連絡ください。
メールで送ります。
A4でも330枚ありますので覚悟してください。
あっ、テーマは「2・26事件」です。
田村さん、読んでねぇ・・・。
2010年2月7日日曜日
梅一輪 一輪ほどの あたたかさ
立春を過ぎましたが、最近の冷え込みはどうでしょう。
とはいえ、近所にある梅の木にはポツリポツリと、そしてひっそりと
可憐なな花の咲いているのを目にしました。
東風(こち)ふかば にほひおこせよ
梅の花 主(主)なしとて 春をわするな
菅原道真が京の都を去る時に詠んだ歌です。
梅の咲くこの時期になるといつもこの歌を思い出します。
最近は、文章を書く苦痛に苛まれています。
言葉の洪水からいかに脱するか?
これが難しい・・・。
2010年2月1日月曜日
最後の沖縄県知事の話
普天間基地の移設について喧しい。
沖縄というと、必ず出てくるのがかつての戦争の傷跡。
いわく、「いかにひどい事を日本軍はしたか」「自決の強要」等など。
この問題には本日は深く立ち入りませんが、ひとつだけ言わせてもらうと、
なんとか島での、島民に対する集団自殺の強要は、「日本軍の悪さ」の象徴として、
教科書にまで載っているようですが、これは裁判になっています。
つまり、強要したとされる部隊、部隊長が「そのような事実はない」と、
嘘っぱちを取り消せということです。真実は那辺にあるのか?
この国のマスコミは一切そういう動きには口を閉ざしますね。
さて、今日はタイトル通り「最後の沖縄県知事」の話です。
その知事の名前は島田叡(あきら)と言う人で、昭和20年1月に辞令がでます。
それまでは大阪府の内務部長だったそうです。沖縄への米軍上陸は必至ということは
皆、わかっていました。沖縄への米軍上陸は昭和20年4月1日です。
彼は、まわりに「行くな」「死ぬぞ」と言われても、こういったそうです。
「誰かが、どうしても行かなならんとあれば、言われた俺が断るわけにはいかんやないか。
俺は死にたくないから、誰か代わりに行って死んでくれ、とは言えん。」
そうして、日本刀と青酸カリを懐中に忍ばせながら、死を覚悟して沖縄へ飛んだ
そうです(引用wikipedia)。
彼の最後は不明です。
彼の前任知事は、在職1年半の間、三分の一もの間「打合せ」として称して
東京へ主張へ出ており、そこで「早く知事を交代させてくれ」という猛烈な陳情を
多方面に仕掛けていたようです。
この両名、どちらも東京帝国大学出のエリートです。
しかし、この両者の落差は一体どこからくるのでしょうか?
あっさり言わせてもらえば「人間の質」としか言いようがありません。
沖縄戦は、本土決戦の捨て石となった悲劇です。
軍人の戦死者よりも、県民の死者の方が多いということもあります。
作戦至上主義が多くの県民を惨禍にさらしたのは事実でしょう。
しかし、それをいまさらあげつらって一体どうなるというのか?
それよりも、自らの命をかけてまで「公」に尽くした、この県知事のような人を
知ってもらう方が、比較できないほど意味あることだと思うのだが。
2010年1月12日火曜日
第23回終了しました
第23回の大新年会が無事終わりました。
ひと月に1回の頻度が多いのか、少ないのか分かりませんが、
顔を合わせるたびにいろいろな話で盛り上がることのできるメンバーの
参集をとても嬉しく思っています。
次回は2月5日(金)です。
何と第24回!会を立ち上げてから丸2年経過したことになります。
まさしく光陰矢の如しです。
大新年会出席者には宣言しましたが、
私、1月末をもって現在の職を辞します。
2月からは無職となります。
それにともなって、会の幹事を以下の五大老による持ち回り制とします。
鈴木・奥田・菅原・山科・関根の5名。
私は五大老だけでなく、会のメンバーには全幅の信頼を置いていますので、
今後もこれまで同様にこの会は続いていくものと思います。
私も会を離れるわけではありません。
この会は私の財産だと思っていますので。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
「私欲の為に弓矢は取らぬ。
ただ筋目を持っていずこへも力を貸す」
上杉謙信の言葉です。彼の生涯はまさしくこの通りですね。
最近のお気に入りの言葉です。
これ、「侠気」に通ずるでしょ。
物事の損得や功利でなく、「義しいか否か」で事を為す。
僕は、こうありたいなぁと思っています。
「他人を支配しようとする前に、まず自分自身を支配せよ」
これは、米国陸軍士官学校でのD・マッカーサーの講演の一節です。
これも、最近のお気に入り。
指揮官を育成するための同校の教育主眼は「人格」教育だそうです。
まずは、「自分を高めよ」と・・・。
話がつきなくなってきたので、ここらでやめます。
それではまた。
追伸)
田村さんに「亮さんは十字軍ですか?」と言われました。
この混濁の世の中に、こんなこと言い出すのは
まさしくそうかも知れません。
2010年1月7日木曜日
新春 2010

明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願い申し上げます。
さて、2010最初のアップですが、昨年末に読んだ本のご紹介をしたいと思います。
最近、やけにいろんな事で怒りっぽくなったなと感じていて、何とかならんもんかと
考えていたときに、本屋で見つけたものです。
「怒らないこと―役立つ初期仏教法話1」
スリランカ初期仏教長老 アルボムッレ・スマナサーラ著
初期仏教というのは、まだいわゆるお経ができる前ですね。釈尊の言葉がそのまま弟子に口伝された頃です。この本がですねぇ、実にいいのですよ。
例えば、こんなくだりがあります。
私はよく「怒りたくないのに怒ってしまうのです」といった相談を受けるのです。
答えは明白です。簡単で、完全な方法をお教えします。
それは「怒らないこと」です。
これ、どうですか?
この人をくったような、文章の後には次のように続きます。
けれど私が「怒らなければよいのでは」と言ったら、
ほとんどすべての人が「それができないから聞いているのだ」と
ムッとするでしょう。みなさんは、実のところ、「私は怒りたい放題、
思う存分、勝手に怒ります。でも怒ってはいけないから、何かいい方法を教えてください」と
思っているのです。誰もかれもが、怒りたくて仕方がない。けれども心のどこかで
「怒らないほうがいいのでは」と思ったりもしている。自分の気持ちにこうした矛盾が
あるのですが、そのことに気づいていない。それで「私は怒りたくない」などと嘘をつく
羽目になるのです。
そうでしょう?あなたが怒ったのは、怒りたかったからでしょう?「怒りたくない」などと
いうのは嘘ですよ。本当に怒りたくないと思っている人は、自らを戒めて注意深く過ごすので、
滅多なことでは怒りませんし、怒ってしまったら恥ずかしくてシュンとしています。
仏教は、怒りを上手にごまかす方法などに、関心はありません。人生はあまりに短いのです。
生きている間に、なんとかして少しでもまともな人間になりたいのです。
あなたは本当に幸福になりたいですか?
もし、本当にそう望むなら、まず「私は怒りたいのだ。ロクなものではないのだ」と
認めることです。それから「怒りとは何か」「我々はなぜ怒るのか?」を理解しましょう。
問題の解決は、問題の理解から始まります。
と、こんな風に続いていきます。僕は、この本を読んでかなり気分が楽になりました。
まだまだ「怒ること」をなくすことはできませんが、少なくとも「あっ、怒っている」と
すぐに認識できるようになりました。
女房にも「最近怒らなくなったね」と言われてます。
人間というのは、いつでも「私は正しい。相手は間違っている」と思っています。
それで怒るのです。「相手が正しい」と思ったら、怒ることはありません。
それを覚えておいてください。
「私は完全に正しい。完全だ。完璧だ。相手の方が悪いんだ」と思うから、怒るのです。
僕は「人間は不完全なものである」ということは理解していたつもりですし、
「自分はロクでもない奴だ」とは常々公言もしているのですが、心の奥底では「自分は
正しい」と思っているわけですね。この本によると、だから「怒る」のだと・・・。
そう書いてありました。
この続きは、興味のある人はお読みください。
今年は、「怒る」ことをやめようと考えています。
ただ、「怒り」にも「私憤」と「義憤」がありますので、
やめるのは「私憤」、「義憤」は大いに結構とは思っています。
「義憤」こそが、歴史を変えてきたエネルギーですしね。
混濁の世に我立てば
義憤に燃えて血潮湧く
それでは、新年会でお会いしましょう。
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